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- 春のこわいもの
- 価格:605円(税込)
世界がその新作を待ち望む作家、川上未映子の傑作短編集『春のこわいもの』(新潮社)。
不穏にして甘美な6つの物語を収録した本作より、「娘について」の冒頭をお届けします。
作家として暮らす私のもとに、かつて同居していた親友から電話がかかってくる。その声を聞いた瞬間、心の奥底に封じ込めていた、ある罪の記憶がよみがえりはじめる――。
娘について
見砂杏奈(みさご・あんな)から電話がかかってきたとき、あまりにも久しぶりすぎて、画面に表示された見砂、という文字を見ても、それが着信であるということに少しのあいだ思い至らなかった。しばらくその名前を見つめていたような気がするけれど、それはそんな気がしただけで実際はほとんど間をおかずに出たのだと思う。
思いがけない電話がかかってきたとき。
もう何年も音沙汰のなかった人の名前をメールの差出人欄に見たとき。
べつに自分が何かをした覚えもないのに、不安とも後悔ともつかない感情が突きあげて緊張が走り、一瞬で汗をかく。そういう予期せぬ小さな再会が、わたしは怖い。
見砂と最後に話したのが会ってだったのか、電話でだったのかはもう覚えていない。見砂はわたしの高校時代の同級生で、親友だった。
家は遠く離れていたし、学校生活を一緒に過ごすだけならさして気にならなかったけれど、高校を卒業してからはそれぞれの家庭環境の違いをことあるごとに感じることになった(彼女は裕福な家で、わたしは母ひとり子ひとりの母子家庭だった)。
彼女は私立美大で4年間を過ごし、わたしはアルバイトをいくつも掛け持ちして生活費を稼いでいた。一度、どこだったかの駅でばったり出くわしたことがある。最初、それが見砂であることにわたしは気づかず、よしえちゃん、と名前を呼ばれて驚いた。
長く伸ばして儚(はかな)いようなミルクティー色にカラーされた髪は、当時流行(はや)っていた細かいふわふわのパーマがかけられて夢みたいに可愛(かわい)らしく、見砂は熊がプリントされたラルフローレンのオーバーサイズのトレーナーに、いい感じのジーンズをいい感じに穿(は)きこなしていた。足元はアディダスの限定激レアスニーカー、白い肌にチークがほんのりまあるく咲くようなメイクはまつげもばっちり上げられて、唇には透明のグロスがたっぷりと塗られていた。
電話ではときどき話していたけれど、見砂に会うのは数ヶ月ぶりだった。高校時代からファッションにこだわりがあって独特のセンスがあることは知っていたけれど、90年代末期の美大生ここに極まれりといった相当おしゃれな人物に進化しており(ちょうど当時、死ぬほど流行っていた脱力系女性デュオの片方にそっくりだった)、おなじようにおしゃれな感じの美大仲間たちと一緒にいた見砂は、居酒屋のバイトに出かけるために上下くたくたのスエット姿で駅を通り過ぎようとしていたわたしのことを、親友なんだよお、と屈託のない笑顔で紹介した。
川上未映子(かわかみ・みえこ) 大阪府生れ。2008(平成20)年、『乳と卵』で芥川賞、2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、2010年、『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞、2013年、詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、2016年、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞をそれぞれ受賞。2019(令和元)年、『夏物語』で毎日出版文化賞を受賞。『春のこわいもの』は海外でもベストセラーになる。『ヘヴン』の英訳は2022年、ブッカー国際賞最終候補に選出された。2023年、『すべて真夜中の恋人たち』が全米批評家協会賞最終ノミネート作品となる。2024年、『黄色い家』で読売文学賞を受賞。このほかにも村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』など著書多数。
株式会社新潮社のご案内
1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
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