【一話全文公開】「顔が良くて大好きな彼氏」が病んで引きこもった…あなたなら、どうする? 金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』試し読み

試し読み

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心を病んだ恋人との生活に耐えきれず、ストロングゼロに頼る女。年下彼氏の若さに当てられ、整形へ走る女。夫からの逃げ道だった、不倫相手に振り回される女。推しのライブ中止で心折れ、彼氏を心中に誘う女。恋人と会えない孤独な日々で、性欲や激辛欲が荒ぶる女――。

絶望に溺れて掴んだものが間違っていたとしても、それは、今を生き抜くための希望だった。

女性たちの疾走を描く鮮烈な短編集『アンソーシャル ディスタンス』より「ストロングゼロ Strong Zero」を全文公開します。

ストロングゼロ Strong Zero

「カレーうどん・麻婆豆腐」。素っ気ない手書きのメニューに、期待していたわけでもないのに落胆していた。こってり系の多い社食だけれど、時たま冷製パスタや焼き魚定食なんかもあって、そういう時は女性社員たちの間で「今日は当たり」と連絡が行き交う。今日は普通に外れだ。

「どうします? ラ・カンティーヌでも行きます?」

 不満そうに振り返って近くの人気ビストロの名前を挙げたセナちゃんに、私と吉崎さんは「いやいや校了」「今晩打ち合わせの松郷さんの新作読まないと」と首を振る。ま、いっかーあたしうどーん。セナちゃんは軽い口調で言ってカウンターに向かっていく。吉崎さんどっちですか? 私もうどんかな。じゃあ私は麻婆豆腐かなー。言いながらトレーにミニサラダを載せる。

 ミニサラダ、麻婆豆腐、ワカメスープ、少なめにしてくれと言ったのに普通に盛られた白米。レンゲから一口頬張った麻婆豆腐はまあレトルトよりはましだけど適当に入った中華料理屋でももうちょっと美味しいよなというレベルだった。せめてラー油や山椒で誤魔化したいところだけれど、卓上にはどっちも無い。二百九十円である以上、食べる者が文句を言えないことを見越したかのようなぴったり二百九十円クオリティだ。

「聞いてくださいよー。この間彼氏が大学時代の友達とバーベキュー行ってきたんですけど、画像見せてもらったら普通に可愛い女の子たちいっぱいいて!」

「女の子いるって聞いてなかったの?」

「聞いてたけど、それでもやっぱ可愛い女の子たちと一緒にいる彼氏見ると萎えるじゃないですかあ」

「まあ、分からなくはないけど」

「でもね、ちょっと拗ねてみたら彼、ちゃんと皆に結婚前提で付き合ってる彼女いるって報告したよって、言ってくれたんですー。ヨシヨシってほんとそうやって私の嫉妬あしらうのがうまくってー。あっそういえばミナちゃんは彼氏と最近どうなんですか?」

 え私? そう言う自分が挙動不審であることに自分でも気づいていた。マウントか? 幸福度の査定か? 反射的にそう思う。二十代前半の頃普通に楽しかったこれ系の話題にマウントを意識するようになってしまったのは、多分セナちゃんのせいではなく年齢や結婚の話に敏感になってしまった私のせいだ。

「まあ、普通に上手くやってるよ。まあもう長いし、わあって感じの盛り上がりはないけどね」

「何年でしたっけ?」

「そろそろ三年」

 吉崎さんは黙々とカレーうどんを啜っている。彼女はつい三週間前に彼氏と別れたばかりなのだ。間接的に傷口に塩をごりごりすり込むセナちゃんに苦笑いしながら、向かいの吉崎さんの顔色を窺おうとするものの、彼女の視線はまっすぐカレーうどんの丼に注がれていて確認できない。

「ミナちゃんは今の彼氏と結婚するの?」

 ナプキンで口を拭いながらようやく顔を上げた吉崎さんが吐いたストレートな言葉に思わず一瞬口を噤み、軽く噎せたフリをして時間稼ぎをする。

「彼安定した職についてないし、まだ分かんないです」

「イケメンバンドマンとの結婚なんて憧れるなー。うちの彼氏なんて見た目激地味なSEですからねー」

「いやいや、バンドもうやってないんだって。今はただのフリーター。それにそんなイケメンじゃないよ」

 うそおめちゃくちゃイケメンでしたよ前見せてくれたじゃないですか! とセナちゃんが追い打ちをかけ、吉崎さんもうどんを啜りながらうんうんと頷く。はいはいありがとうございます。と呟くと、あーミナちゃん感じわるーい、とセナちゃんが私を小突いた。確かに彼はイケメンだ。私の彼氏はイケメン。本当にどこからどう見てもイケメンで、恐らく世界中どこでも認められるイケメンだ。

 私ちょっとコンビニ寄ってくから。二人にそう言い残して先に社食を出ると、歩いて三分のコンビニに入りストロングのレモンを二本手に取りチョコやグミと共に買う。コンビニを出ると人通りの少ない路地に入り、電柱に背を凭せながらハンカチで覆ったチューハイを一気に飲み干した。もう一本飲もうかどうか迷っていると、スマホが震えた。

金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983(昭和58)年、東京生れ。2003(平成15)年、『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年、『TRIP TRAP』で織田作之助賞、2012年、『マザーズ』でドゥマゴ文学賞、2020(令和2)年『アタラクシア』で渡辺淳一文学賞、2021年『アンソーシャル ディスタンス』で谷崎潤一郎賞、2022年『ミーツ・ザ・ワールド』で柴田錬三郎賞を受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『ハイドラ』『持たざる者』『マリアージュ・マリアージュ』『軽薄』『fishy』『デクリネゾン』『腹を空かせた勇者ども』、エッセイに『パリの砂漠、東京の蜃気楼』などがある。

新潮社
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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