一頭の熊が、村を恐怖のどん底に陥れた。実話をもとに日本獣害史上最大の惨事を描く小説 吉村昭『羆嵐(くまあらし)』試し読み

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一頭の羆(ひぐま)が、北海道天塩山麓の開拓村を恐怖の渦に巻き込んだ。

大正4年12月、冬眠の時期を逸した羆が、苫前村三毛別六線沢(現・苫前町三渓)の村でわずか2日間に6人の男女を殺害した。鮮血に染まる雪、羆が潜む闇、人骨を齧る不気味な音……。自然の猛威の前で、なす術のない人間たちと、ただ一人沈着に羆と対決する老練な猟師の姿を浮彫りにする、ドキュメンタリー長編。

記録文学の第一人者である吉村昭の『羆嵐(くまあらし)』より、第二節の一部を公開する。

 ***

 板壁に沿って曲ると、数名の六線沢の男たちがためらいがちに入口に近づき、垂れ蓆(むしろ)の内部に身を入れた。その後から、区長と銃を手にした三毛別の男たちが家の中に足をふみ入れた。

 内部は前日と変りなく、凍みるような冷気がひろがっていた。床には小豆が散り、燃えさしの薪がころがっていた。

 かれらは、寝室の中をうかがった。綿のはみ出たふとんの上には、島川の子供の遺体が仰向けに横たわっていた。咽喉の周辺に盛り上った血は凍りつき、鈍く光っていた。

 かれらは、炉の周囲に立って髪のからみついた窓を見つめた。

 深い静寂の中で、不意に歯車のきしむような音が起り、柱にかかった時計が音高く時を打ちはじめた。かれらは、時計に眼を向けた。油煙にくすんだガラス板を通して、短針がローマ数字の九を正しくさしていた。

 六線沢の男たちは、時計の針を複雑な表情で見つめた。オドが氷橋の作業現場に走ってきたのは前日の一時過ぎで、その瞬間からかれらには時間の意識が失われていた。その間、かれらは雪道を走り、子供の遺体と窓枠にからみついた毛髪を眼にし、日没後、松明をかかげ金属製の容器をたたいて村道を往き来した。そして、夜明けとともに人を派し、救援に来た三毛別の男たちと島川の家に再び足をふみ入れた。それは、時間の流れとは無関係の、あわただしく体を動かしつづけた行為にすぎなかった。

 短針の先端がさすⅨというローマ数字は、時間が重々しく流れていたことをしめしていた。かれらは、前日の午後から自分たちの生活のリズムが完全に失われてしまっていることに気づいた。

 九時か、と男たちは胸の中でつぶやいたが、それはなんの意味ももたなかった。

 六線沢の男たちの関心は、自分たちをふくめた五十名近い男の存在と五挺の銃にあった。それは羆を追うのに強力な集団であり、羆を斃(たお)すのに十分な武器に思えた。

 行くぞ、という区長の声に、五名の銃携行者がつづき、他の男たちはその後に従った。かれらは島川の家を出ると雪道を横切り、トド松の密生した山の傾斜にかかった。

 山林内の雪は深く、かれらの体は膝上まで雪に没した。かれらは樹幹の間を縫うようにしてのぼっていったが、時折りトド松の枝から雪塊が音を立てて落下すると歩みをとめ、しばらくの間周囲をうかがった。射手たちは、弾丸を装填した銃を手に区長の後につづいていた。

 荒い息が男たちの間から起り、額に汗が光りはじめた。いつの間にか、村落が下方に沈んでみえるようになった。

 山林の傾斜をのぼりはじめてから三十分ほどすぎた頃、突然、前方に眼を向けた区長の口から鋭い声がもれた。男たちは足をとめ、区長の視線の方向に眼を据えた。

 傾斜の三十メートルほど上方に、雪がなだらかな丸味をおびて盛り上り、頂きに粉雪の附着したトド松が立っている。その太い幹の傍に枯草の集落のようなものがみえ、それがかすかに動いていた。

 区長が低い声をあげ長柄の鎌をかまえると、銃携行者があわただしく前に進み出て銃床を肩に押し当てた。

 茶褐色のものが動きをとめると、急に盛り上った。うるみをおびたような小さな眼が、焦点の定まらぬように光ってみえた。男たちは、その巨大さに眼をみはった。それは馬体よりもはるかに大きく逞しい体であった。

 射手たちが、一斉に引金をひいた。が、軽い金属音がつづいてしただけで、山林の静寂を破る発砲音が起ったのは一挺の銃からだけであった。手入れを怠り放置されていた他の銃は、弾丸が装填されてはいたが不発だった。しかも、一挺の銃から発射された弾丸も、冷静さを失った射手の照準の狂いで、かなりはなれたトド松の幹にそれた。

 銃声に茶色いものが一瞬硬直したように動かなくなったが、その毛がふくれ上ると、突然、雪を蹴散らしながら駈け下ってきた。
 
以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて
 
 
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吉村昭(よしむら・あきら)
1927年、東京・日暮里生れ。学習院大学中退。1966(昭和41)年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。以来、現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表した。主な作品に『ふぉん・しいほるとの娘』(吉川英治文学賞)、『冷い夏、熱い夏』(毎日芸術賞)、『破獄』(読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞)、『天狗争乱』(大佛次郎賞)等がある。2006年没。

新潮社
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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