何が彼女をそうさせたのか? 昭和の猟奇殺人「阿部定事件」を圧倒的筆力で描いた傑作評伝小説 村山由佳『二人キリ 上』試し読み

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昭和十一年、日本中が狂騒した阿部定事件。
阿部定という三十一歳の女が、奉公先の亭主であった愛人・石田吉蔵を情交中に絞殺、急所を切り取って逃亡した。
事件は大々的に報じられ、定は稀代の妖婦、現代のサロメなどと呼ばれる存在として記憶されることになる――。
だが、一体何が彼女をそうさせたのか? 
性愛の極致を、人間の業を、圧倒的な筆力と熱で描き出す傑作評伝小説。

絶賛発売中の『二人キリ 上』(村山由佳・著)から、冒頭を公開します。

 ***
 
 ──父に捧ぐ

第一章

 軒先にかかった緑色の暖簾が、だらりと垂れて動かない。話には聞いていたがほんとうに緑色が好きらしい。白く染め抜かれているのは「若」の字と五葉の笹だ。おにぎり屋『若竹』――間口の狭い、思っていた以上に小さな店だった。

 かつての吉原遊郭にもほど近い台東区竜泉、千束稲荷神社の鳥居と一対のお狐さんを背にして立ち止まると、僕は通りの向かいに建つその店を眺めやった。照りつける陽射しに、自分の影が短い。神社の木々の梢から蟬時雨がおそろしいほどの音圧で降ってくる。都電の三ノ輪橋駅からわずかばかり歩いてくる間に噴き出した汗が、開衿シャツの喉もとから胸へと流れ伝わり、額から目にも流れ込み、左目のまわりにはよけいに溜まる気がする。

 ハンカチを出して押さえるように拭った。ここまで来ておきながら足がすんなりと前へ出ない自分がもどかしい。

〈なあ、いっぺん会ってきなって。今のうちだよ〉

 耳もとにRの物言いがよみがえる。

 周囲に迷惑が及ぶことのないように名は伏せておくが、度外れて素晴らしい映画を撮るという一点において僕は彼を天才だと思っている。と同時に僕自身にとっては特大の災厄だと思っている。

 いずれにせよ、そのRにしてみれば、僕が〈彼女〉と間に合ううちに会って話を聞けるかどうかはこの先いつか撮ろうとしている作品の出来に大きく関わってくるわけで、なるほど躍起になって尻を叩くのも当然ではあるのだった。人の撮らないものを撮る、を信条としてきた監督の目に、彼女はいわばファム=ファタルと映っているようだった。

〈そろそろ向こうもいい歳なんだしさ。人には残り時間てものがあるんだから〉

 どこまでも自分勝手な言い草にあきれるが、いつものことだ。僕より七歳も下のくせに、彼には年長者を敬おうという発想がない。

 そんなに興味があるんだったらまず自分が会いに行けばいいじゃないかと言ってやると、Rは肩をすくめた。

〈そりゃそうしたいのはやまやまだけど、吉弥がいちばんよく知ってるはずだろう? ほんのちょっとでも昔の話を匂わせたとたん塩をまいて追い返されるって噂じゃないか。それでなくても顔の売れてる俺なんかがのこのこ訪ねたって、ほんとうのところなんぞ聞かせてくれるもんか〉

 そう言われても、こっちだって初対面と変わらないのだ。三十年も前の、それもたった一瞬の出来事を覚えている人間なんているわけがない。

 ついでに言うと、僕が彼女の身辺にこれほど詳しいのはひとえに執着心がもたらした結果でしかない。好奇心とか探究心などというにはあまりにも濃くて昏い、粘つくような、それでいて鋭い欲求。しかしそれはどういうわけか、面と向かって本人と話してみたいという気持ちには繫がらなかった。少なくともこれまでは。

〈ま、そんなに気が進まないんなら無理にとは言わないけれどさ〉

 短くなったハイライトの先を灰皿に押しつけながら、Rは僕を横目で見た。

〈知らないよ、あとになって悔やんでも。歳のことを別にしたって、人間いつ何があってもおかしくないんだから。ちょっとでも会うつもりがあるなら、あんまり悠長に迷ってる暇はないんじゃないか?〉

 僕と彼女とのささやかで濃厚な繫がりを、Rだけは知っている。しきりに勧めるのが自分のこれからのためであるのは当然として、もしかするとそのうちのほんの少しくらいは、子飼いの脚本家のためを思って言ってくれているのかもしれなかった。

 ズボンのポケットから古い懐中時計をつかみ出し、顎の下の汗を拭いながら見ると午後二時だった。伝手をたどって仲介を頼み、暑い中をここまでやって来たというのに、それこそあまり悠長に構えていると先方が出かけてしまうかもしれない。もし今日会えなかったら、おそらく二度と出直して来る気にならないだろう自信はある。

 油照りの通りを思いきって向かいへ渡る。伸ばした手でかき分けた緑色の暖簾は少し湿っていた。

 ガラス戸の把手に指をかけ、そろりと引き開けて奥へ声をかけた。

「ごめん下さい」

 返事がない。

 中は窓からの明かりだけで薄暗く、ほんの四坪ばかりの土間にテーブル席が一つ、カウンターは三、四人も座ればもう肩のぶつかる狭さだ。申し訳程度の厨房の後ろに、一段上がって小さな座敷があるらしい。おにぎり屋とは言うが、要するに一杯飲み屋のようだ。

 と、奥から何か聞こえた。水を流す音。かすれた咳払い。

「ごめん下さい」

 声を張って再び呼ばわるとようやく「はあい」と応えがあり、ややあって、秋草柄の藍の浴衣をまとった女性が現れた。

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞。2003年『星々の舟』で第129回直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で第4回中央公論文芸賞、第16回島清恋愛文学賞、第22回柴田錬三郎賞、21年『風よ あらしよ』で第55回吉川英治文学賞を受賞。エッセイ『命とられるわけじゃない』『記憶の歳時記』、小説『ある愛の寓話』『Row&Row』など著書多数。

集英社
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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