豪華客船という名の密室で起こる謎解き! 恩田陸『鈍色幻視行』試し読み

試し読み

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この世には呪われた小説が存在する!? 正体不明の作家・飯合梓が遺した『夜果つるところ』。幾度となく映像化が企画され、その度に事件や事故が起こって頓挫してきたという。果たしてそこには一体何が記され、何が隠されているのか。作家の蕗谷梢は真相を追って、アジアを巡るクルーズツアーに参加する。編集者、映像プロデューサー、助監督、評論家ら、関係者が一堂に会する豪華客船に乗って――。

連載15年、恩田陸のすべてが詰まったミステリ長編『鈍色幻視行』より、冒頭部分を公開します。

 ***

序章

 ベトナムで見た蠅のことを考えている。
 
 
 旅のあいだ、何がいちばん印象に残ったかと人に聞かれたら、いろいろ答えるべきことはある。船旅の贅沢さ、ダイナミックな大陸の人々、旧植民地の建造物や、自然の造形の美しさ。

 しかし、個人的に旅の象徴として残っている場面は、オプショナル・ツアーの帰りのバスの中で見た蠅なのである。

 もう太陽は西の空に沈み、空は少しずつ紫色に透き通り始めていた。バスの中は暗く、インフラ整備が進みつつある都市の造りたての道路を冷房の利いたバスが走っている。

 乗客はうつらうつらしていて、誰もが眠っているように見えた。

 切り拓かれたばかりの山肌は寒々として、この先味も素っ気もない「開発」という名のもとの自然破壊と造成が──かつて日本が通ったのと同じ道がこの大地に待ち受けていることを感じながら、私は暮れていく窓の外をじっと眺めていた。

 その時、視界の隅に蠅がいることに気付いたのだ。

 小さな黒い蠅。

 蠅は豪華なバスのよく磨かれた窓の内側にいて、ぽつんと雲のない空に浮かんでいるように見えた。

 微動だにせず透明なガラスに留まった蠅は、世界をどう認識しているのだろうか。

 少しずつ宵闇に沈んでいく景色の中をバスは走り続けていて、乗客は寝静まり、目を覚ましているのは私と蠅だけのような気がした。

 もしかすると、蠅だって本当は眠っていたのかもしれない。けれど、あの旅のことを思い出そうとすると、あのバスの中で蠅に感じた奇妙なシンパシーと、窓越しに暗くなってゆく空を眺めていた記憶だけが身体の中にしんと冷たく残っているのだった。

 今もあの旅の間につけたメモを頼りに原稿を書き続けているのだが、その仕事にしても、やはり私自身があの透き通ったガラスに留まっていた蠅に思えて仕方がない。あの作品について複数の人間からゆっくり話を聞けたことは有意義だったが、結局見えないガラスを撫でているだけではないかという無力感に繰り返し苦しめられる。
 
 
 ピアノの音が聞こえる。
 
 
 誰かが弾いているのか、オーディオからのものなのかは分からないが、その「イタリア協奏曲」はなかなか上手だった。

 私は、遅々として進まぬ原稿から注意をそらす。

 そういえば、私たちはアモイにあるピアノの島に行った。十九世紀のヨーロッパのメーカーのグランド・ピアノがたくさん並んでいる博物館で、骨董品のようなピアノの間を歩き回った。

 旅に出る前に、TVであの島のドキュメンタリーを観たことがある。小さな古ぼけた家の中で、音楽教師の父が娘にピアノの特訓をしていた。古いアップライト・ピアノでショパンのエチュードの第一番を弾きまくるおさげ髪の娘。父親は、娘をラン・ランやユンディ・リのような世界的ピアニストにするのが夢なのだ。

 ショパンのエチュードの第一番は、寄せては返し、遠くへとうねっていく波の音に似ている。

 海の表面が、白い波頭が、ショパンのエチュードに重なって、ガラス越しにうねる。

 どこまでも一直線に空を隔てる淡いブルーグレイの水平線に、音にならない潮のうねりが無言の咆哮を繰り返している。

 私は仕事場の窓の向こうに、あの鈍色の薄暗い海を見る。

 誰もいない海、生きる者の気配のない海。

 塩がこびりつき、かすかに曇ったガラス窓に、微動だにせぬ一匹の蠅を見る。

 私と蠅は、静かに暮れていく空の向こうに、見えないものを感じている。私たちにしか共有できない世界、私たちだけが目覚めている世界、私たちが畏れつつも憧憬する、決して目に見えない世界を。

恩田陸(おんだ・りく)
1964年生まれ、宮城県出身。92年、第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木賞と第13回本屋大賞を受賞。

集英社
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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