池田晶子さんによる「死から始める哲学」 『すべての人の死因は生まれたことである』試し読み

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池田晶子さん

 人は誰もが年を取り、病を抱え、いずれは死ぬ。この当たり前のことから目を背けて、本当に充実した人生を送れるのだろうか。

 専門用語を使わず、常に日常の言葉で語り続けた哲学エッセイで多くのファンを持つ池田晶子さん。その「生老病死」に関する論考のみで編まれた新著『すべての人の死因は生まれたことである』には、人生の本質を考えるうえでの重要な指摘が詰まっている。

 ここでは同書収録の2編(「死ぬときは一人である」「パソコンに罪はない」)を公開しよう。

死ぬときは一人である

 インターネットで仲間を募り、心中するのがはやっている。新手の心中物である。不思議な心性である。いったいこれは何なのか。

 私はかねてより、心中する人々の想像力の欠如に驚いている。親子による道連れ心中、残された子供が不憫だから、という心の動きは、わからなくはない。けれども、相愛の男女が共に死ぬこと、すなわち情死、この心性を考えるだに、悪いけれども、私はぷっと吹き出したくなるのである。

「死んであの世で添い遂げようぞ」は、近松以来の心中の大原則だけれども、どう考えたって、これは変ではないか。可笑(おか)しいではないか。あの世で添い遂げられる保証はないのに、そう思い込んでいるということが変なのではない。一緒に死ねば、一緒に死ねると思い込んでいる、このことが変なのである。なんで、一緒に死ねば、一緒に死ねるはずがあるのだろうか。

 当たり前すぎて、よくわからないかもしれない。たとえば、我々は、毎晩眠るけれども、眠る時はいつだって独りである。二人で並んで眠ろうが、大勢ごっちゃになって眠ろうが、眠る時、眠り込む時には、必ず独りである。隣りの人と一緒に眠って、一緒に夢を見るということは、絶対にない。眠るということは、完全に独りきりの、自分だけの出来事なのである。

 これを敷衍(ふえん)すれば、目覚めている時だって、同じである。人は、目覚めている世界には大勢の人がいるので、大勢の人と共に生きていると思いがちだけれども、そうではない。大勢の人が生きているその世界を見、その世界を生きているのは、どこまでもこの自分でしかない。自分というのは、眠っていようが起きていようが、完全に独りなのである。

 それなら、なんで死ぬ時にだけ、他人と一緒に死ねる道理があるだろうか。手首を結んで死のうが、固く抱き合って死のうが、死ぬ時、死ぬ瞬間には、別々であるのは決まっている。抱き合ったままあの世に行けるわけではないのである。もし抱き合ったままあの世に行けるのなら、この世で生きているのと同じことなのだから、それならべつに死ぬ理由はないはずなのである。

 ふと気がつけば、あまりに当たり前なことなのだが、古今の心中する人々は、みなこの甘い勘違いにはまっている。大正や昭和の初期にかけては、名だたる文士たちが多く心中したけれども、彼らにしてすら、この種の想像力は、見事に欠落していたのである。

 それでも、この勘違い、相愛の男女が心中するという勘違いについてなら、ああそんなに好き合っていたんだな、その意味でほほえましく感じなくはない。が、理解できないのが、このネット心中である。死ぬために知り合って、一緒に死ぬという心性である。

 死にたいのだが、一人で死ぬのは怖い。しかし、一緒に死んでくれる親しい人もいない。というのが理由であるらしい。死にたい気持を共有し合えて、初めて友情を知ったというのもあるらしい。これはあまりに淋しい。

 淋しいけれども、ここは冷静に考えていただきたい。なるほど、みんなで死ねば怖くないと思うのかもしれないが、みんなで死んでも、みんなで死ねるものではない。死ぬ時には、人は必ず独りである。

 ましてや、想像してみるといい。みんなで死ぬはずだったのだが、周囲のみんなは、一人死に、二人死に、先に死んでしまったのが気配でわかる。しかし、自分はまだ生きている。独りで取り残されて、独りで死ぬのを待っている。しまった、死ぬ時はやっぱり独りだった。気がついて、後悔しても、もう遅い。ずるいじゃないか、みんなで死のうって言ったのに。向こうで会おうって言ったのに。これは全然そういうことじゃなかった。しかしもう遅い。

 こういう死に方、死を待つ時間の方が、よほど怖いのではなかろうか。死ぬという経験は、人生で一度しかできないのだから、よく考えてからでないと、もったいない。

池田晶子
1960(昭和35)年東京生まれ。文筆家。慶応義塾大学文学部哲学科卒業。専門用語を使わずに、哲学するとはどういうことかを日常の言葉で語る「哲学エッセイ」を確立して幅広い読者を得る。2007年没。『14歳からの哲学』『無敵のソクラテス』など著書多数。

新潮社
2026年7月17日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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