泉ゆたかが描く美味しくて泣けるハートフルストーリー 『ベティーズキッチンへようこそ』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

時代小説の名手として数々の賞を受賞してきた泉ゆたかが、デビュー10周年に放つ新境地! 湘南・逗子の海辺で繰り広げられる「アメリカ家庭料理×英会話」の温かな再生劇『ベティーズキッチンへようこそ』。失われた愛犬のダイヤモンドをめぐる、美味しくて泣けるハートフルストーリーです。

第一章「モモのダイヤモンド」を全文公開します。

第一章 モモのダイヤモンド

       1

 午前中に玄関ドア前に届いていたはずのその小包は、どこにも見つからなかった。朝倉亜衣は一度部屋に戻って、歩きづらいビーチサンダルからスニーカーに履き替えた。
 再びアパートの廊下に出ると、湿気を含んだ熱の帯が押し寄せてきた。
 微かに甘味のある潮の匂いを感じた。このアパートから徒歩で十五分ほどの逗子の海から吹いてくる風だ。この地域で暮らす人たちの自転車を錆だらけに、車のフロントガラスを真っ白に、ベランダを腐食させて、外干しの洗濯物をべたべたにしてしまう潮風だ。
「……待って、そんなはずない」
 胸に掌を当てて呟いた。ドアの周囲をもう一度見直す。アパートの集合ポストを、二階へ上がる階段下にある自転車置き場も探した。
 けれど小包は見当たらない。
 頭の中が真っ白になって、廊下でしばらく立ち竦んだ。
 ポケットからスマホを取り出す。
 〈配達完了〉
 スマホの画面に表示されたその文字を、亜衣は悪い夢の中にいるような気持ちで見つめた。
 〈お問い合わせはこちらまで〉
 画面を見つめたまま部屋に戻り、しばらく迷ってから、画面の隅に小さく書かれていた電話番号を親指でタップしてみた。
「ナビダイヤルでお繫ぎします。この電話は三十秒ごとに二十二円の通話料が――」
 呼び出し音が鳴ってすぐに、無機質な声が響く。
 どのくらい待つことになるのだろう。試しに三十秒を胸の中でカウントしてしまったらもう駄目だった。居ても立っても居られない気持ちになって電話を切った。
 もう一度、スマホの画面に目を落とした。
 差出人の会社からの発送完了を伝えるメッセージを探す。昨夜、母から転送されてきたものだ。
 メッセージの末尾に書かれていた番号に電話を掛けてみると、今度はすぐ に相手が電話に出た。
「はい、株式会社メモリアルサービス、カスタマーサポートでございます。本日はどのようなご相談でいらっしゃいますでしょうか?」
 落ち着いた女性の声が聞こえた。
「……」
 身体が強張った。
「もしもし?」
「……ごめんなさい」
 反射的に謝ってしまってから、慌てて咳払いをした。どんどん頰が熱くなる。
「あの、商品が今日配達されるはずだったんですが……」
「ご迷惑をお掛けいたしまして、大変申し訳ございません。ご注文番号をお教えいただけますか?」
 電話の向こうの女性は続く言葉を推し量るようにして、まず先に丁重な謝罪を口にした。
「あ、はい、えっと……」
 亜衣はメッセージを見直して、注文番号を読み上げた。
「確認いたしましたところ、ご依頼の商品は七月三日に本社より日時指定にて出荷されました。その後、本日七月四日午前中に神奈川県逗子市のご住所に配達完了との記録がございます」
「……ごめんなさい」
 また亜衣に謝られて、電話の向こうの人が、どう返せばいいか困惑したように一瞬、黙った。
「ごめんなさい、昨夜、私がネットで“置き配”の指定にしてしまったんです。そうしたらネット上では配達完了になっているのに、小包がどこにも見当たらないんです」
 昨夜、亜衣のLINEに宅配会社の公式サイトから配達予定の案内が送られてきた。
〈19~21時。手渡しでの配達〉
 メモリアルサービス、という身に覚えのない会社から発送された小包に怪訝な気持ちになった。けれどそのすぐ後に届いた母からのメッセージを目にした瞬間に、小包の中身がわかった。
〈ほんの少しでいいから、家の外に出てみたらどう? モモちゃんだって、あなたがそんなふうにずっと悲しみ続けることを望んではいないはずよ〉
「手渡し」という言葉が急に重く感じられた。
 半年前に急に仕事を辞め、アパートの部屋からほとんど出ることがない暮らしになってから、生活は完全に昼夜逆転していた。明け方四時頃に眠りに落ち、昼過ぎに起きる生活だ。宅配便の荷物は基本的に“置き配”に指定して、誰とも顔を合わせないようにしていた。
 目が覚めたら玄関のドアの前に置かれている小包を引き取ればいい。それだけのことだと思っていた。
「お品物が見つからないとのこと、ご心配かと存じます。ご不便をおかけしてしまい大変申し訳ございません」
 急に我に返った。申し訳ない気持ちに襲われた。
 記録上は配達が完了しているのだ。電話の向こうの相手が謝ることなんて何もない。
「いいえ、置き配の指定にしたのは私です。ごめんなさい」
 慌ててまた謝った。
「とても大切なお品物です。お客様のご不安なお気持ち、お察し申し上げます。こちらから配送会社に状況確認を行わせていただきます」
「大丈夫です。営業所の場所はわかるので、直接行って聞いてみます」
 冷静に考えると、配送業者が間違えて別の住所の玄関先に置き配をしてしまった、という可能性が一番ありえることだ。ドライバーの記憶が新しいうちに確かめれば、何かがわかるかもしれない。
「もしお時間に余裕がございましたら、まずは弊社から配送業者に連絡を取らせていただきますが……」
「大丈夫です。自分で行ってみます」
 小包が見つからないという事実がすぐには認識できなくて、思わず電話を掛けてしまったことが恥ずかしかった。これ以上、この人の手を煩わせるわけにはいかない。
「お手数をお掛けしてしまい申し訳ございません。もしもお困りのことがございましたら、どうぞいつでもご連絡くださいませ」
「ありがとうございます。すみませんでした」
「とんでもないです。大切なお荷物が無事に見つかるよう、心より願っております。お気をつけてお出かけくださいませ」
 電話を切りかけたところで、ふと、大事なことを聞き忘れていたと気付いた。
「あの、送っていただいた小包ってどんな見た目ですか? それと伝票の品名のところには何て書いてありますか?」
「お伝えを忘れておりまして、大変申し訳ございません」
 パソコンを操作するキーボードの音が微かに聞こえた。
「お荷物は十五センチ立方体の段ボール箱で、ネイビーの光沢のある素材の防水ペーパーに包んでおります。天面の右上に弊社のホームページのトップ画面にありますシルバーのロゴのシール、取り扱い注意、のシールが貼られております。配送ラベルの品名は……」
 これまで淀みなく話していた女性がほんの一瞬だけ、口ごもった。
「アクセサリー。後ろにカッコで、ダイヤモンド、と記載されております」

泉ゆたか
1982年神奈川県逗子市生まれ。早稲田大学卒業、同大学大学院修士課程修了。2016年「お師匠さま、整いました!」で第11回小説現代長編新人賞を受賞し作家デビュー。2019年『髪結百花』で第8回歴史時代作家協会賞新人賞と第2回細谷正充賞をダブル受賞。『おばちゃんに言うてみ?』、「世田谷みどり助産院」「横浜コインランドリー」シリーズなど、現代小説も精力的に手掛ける。他の著書に『れんげ出合茶屋』『ユーカラおとめ』「お江戸けもの医 毛玉堂」「眠り医者ぐっすり庵」「お江戸縁切り帖」「歌舞伎楽屋裏ばなし」各シリーズがある。

実業之日本社
2026年9月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

実業之日本社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社実業之日本社のご案内

新刊の試し読みや刊行物関連のメディア化情報をご紹介している実業之日本社の公式サイトです。著者インタビュー、対談なども掲載中!