僕の人生には事件が起きない
2018/09/18

第1回「あんかけラーメンの汁」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加


イラスト:岩井勇気(ハライチ)

 仕事柄、常に調子を整えておかなくてはいけない体の一部分がある。それは喉だ。お笑い芸人として声が出なくなるというのは致命的である。ましてや僕なんて、リアクションや動きが持ち味の芸人ではない。しかし、いくら気を付けていても1年に1度くらいは喉の調子が悪くなる時がくるのだ。
 ある朝起きると、頭がぼーっとして喉が渇く感じがした。風邪だということはすぐにわかったが、とりあえずリビングへ行き冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。すると麦茶が喉を通るたびに少し喉が痛い。これはまずいと思い、声を出してみると案の定、ハスキーボイスを手に入れていたのだ。
 こうなると完治するのに2週間はかかる。すぐに近くのクリニックに行き、風邪薬や喉の炎症を抑える薬をもらったが、普段通りの声を出せるまで時間がかかるのは経験上わかっていた。解決策を考えようとパソコンでインターネットを開き、色々調べたが、結局喉を壊した時ははちみつが良いという誰でも知っている情報しか得られなかった。
 それでも気休めにと、スーパーに行きハチミツを買った。一緒に、お湯を注ぐタイプの粉の生姜湯も買い、家に帰った。
 家に着くとすぐ、やかんでお湯を沸かし、買ってきた生姜湯の粉をマグカップに入れてお湯を注ぎ、生姜湯を作った。そしてそこに大量のハチミツを入れて、おそらく喉に良い(と思われる)特製ドリンクを作ったのだ。
 飲んでみると、ねっとりとした液体が絡みつき、痛む喉が少し気持ち良い。少し声を出してみたが、飲む前よりかなり声が出るようになる。これを水筒に入れて仕事の直前に飲めばどうにか騙し騙しやっていける。そう思い、その日の仕事帰りに直接口をつけて飲めるタイプの水筒を買った。そして次の日からそれに特製ドリンクを入れ仕事の直前に飲んでは、なんとかしのいだ。
 しかしその特製ドリンクの効果はあまり持続しない。頻繁に飲まないとすぐにまた声が出なくなってしまうのだ。そうやってちょくちょく水筒から特製ドリンクを飲んでいるうちに、こんなに大量のハチミツを入れた高カロリーの飲み物を毎日たくさん飲んでいたら逆に体に悪い気がしてきて、一定時間声が出るようになる代わりに少しずつ寿命が縮むドリンクを飲んでいるんじゃないか、という気持ちにすらなった。
 が、どうにか2週間近くをしのぎ、いつも通り声が出せるように回復した。

 それから少し経って、僕の中で大流行した食べ物があった。インスタントのあんかけラーメンだ。しょうゆ味の袋麺なのだが、他のインスタントラーメンと違い、作るとスープが絶妙にトロトロとしていて美味しい。2日に1個のペースで食べるくらい、あんかけラーメン中毒になっていた。
 ある日、このあんかけラーメンの美味しさについて考えた。麺は通常のインスタントラーメンと同じでよくあるちぢれ麺だし、特徴的な具も無いので、結局トロトロとした少し濃い味のスープが勝因だという結論に至った。そしてあんかけラーメン中毒の僕は、この美味しいスープをいつでも飲めればな……というなかば狂った願望を抱いた。それと同時に、この前買った水筒があるじゃないかと、閃いてしまったのだ。

 早速家でお湯を沸かし、あんかけラーメンの袋からスープの粉だけを取り出した。そして水筒にあんかけラーメンのスープの粉を入れてお湯を注ぎ、持ち歩きできるあんかけラーメンの汁を完成させた。その場で少し飲んでみたが、やはり美味い。僕はそのあんかけラーメンの汁の入った水筒を持ち、出かける事にした。
 その日は仕事が夕方からあったが、その前にホームセンターで買い物をしようと早めに家を出た。歩いて駅に向かい、駅のホームに着き、電車を待った。そして電車を待っている最中、僕はバッグからおもむろに水筒を取り出し、あんかけラーメンの汁を飲んだのだ。外で飲むあんかけラーメンの汁はまた格別に美味い。駅のホームという公共の場であんかけラーメンの汁を飲むという、僕だけが感じている非日常が、また1つのスパイスになり美味しさを増幅させている気がした。
 駅のホームには何人もの人がいて、僕が水筒で何かを飲んでいるという姿を見られてはいるのだが、中身があんかけラーメンの汁とまではわからない。それどころか、水筒で飲んでいることによって「この人は自分の家から水筒を持ってくる、どこか温かみのある人なんだな」と言う印象さえ与える。僕は高揚する気持ちを抑えながら、水筒の蓋を閉めて電車に乗り込んだ。

 目的の駅で降り、歩いてホームセンターに向かっている途中の交差点で、信号を待った。待っている途中、僕は再びバッグから水筒を出し、あんかけラーメンの汁を飲んだ。美味い。まさか向こう側で信号を持っている人も、僕が交差点であんかけラーメンの汁を飲むという異常な行為に及んでいるとは思わないだろう。屋外の、こんな人目につく交差点で何かとんでもない事をしている気持ちになっていた。
 ホームセンターに着き、シーツと皿何枚かを選んでレジに持って行った。20代後半くらいの女性店員がレジを打ち、お会計が済んだ後、買った皿を1枚1枚割れないように梱包してくれた。その少しの待ち時間、僕はまたしてもバッグから水筒を取り出し、あんかけラーメンの汁を飲んだのだ。女性店員がチラッとこちらを見たが、目の前であんかけラーメンの汁を飲んでいるとは決して思わないはずだ。おそらく「喉が渇いたのかな」程度に思い、梱包作業を続けた。不特定多数の視線を感じながら飲むのとはまた違い、特定の人物に見られていると確信しながら飲むのも、それはそれで興奮するのだった。

 その後、ホームセンターを出て、仕事まで時間があったので近くの公園を散歩した。天気の良い昼間の公園は、子供とその母親達で賑わっていて幸せな空気が流れていた。僕は空いているベンチに腰をかけ、流れる雲を見ながら佇んだ。そしてもちろん、ゆっくりとバッグから水筒を取り出し、あんかけラーメンの汁を飲んだのだ。子供達は広場で遊び、母親達はそれを微笑ましく見ながら談笑している。そしてベンチに座っている男は水筒の中のあんかけラーメンの汁を飲んでいる……。日常の平和な風景に潜む狂気の沙汰に僕は震えた。たまに子供達を凝視しながら飲んだ。この行為が何なのかと聞かれたら分からないが、確実に背徳感に似た感覚を覚えていた。

 日常生活に、いつもやらない事を少し加えるだけで全然違う風景に見える。あんかけラーメンの汁はそれを教えてくれた気がした。しかし、1日中飲んでいたので、その日であんかけラーメンに少し飽きた。

 ***

次回の更新予定日は9月28日(金)です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加