僕の人生には事件が起きない
2021/02/12

ハライチ岩井が“天敵”パクチーの克服を諦めた理由

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お笑い芸人・ハライチの岩井勇気による連載エッセイふたたび。「人生には事件なんて起きないほうがいい」、独自の視点で日常に潜むちょっとした違和感を綴ります。今回のテーマは「パクチー考」です。

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「パクチー考」


イラスト:岩井勇気(ハライチ)

 苦手な食べ物が多い。いや、これがかなり多いのだ。

 元々味が苦手なものも多い上に、子供の頃に親の苦手な食べ物に対して、これは美味しくないんだ。という印象が刷り込まれて苦手になったものもある。決して食わず嫌いだった訳ではなく、味も美味しくないと感じるようになってしまった。そうして自分の苦手な食べ物に、両親の苦手な食べ物が足された、悲しき舌が完成したのだ。

 ちなみに味にうるさいという訳ではなく、苦手でないものなら基本お腹を満たせれば、何でもいい。

 漬物、梅干し、レバー、メロン、あんこ……と苦手な食べ物をあげればキリが無い。傾向で言うと、春菊、セロリ、シソといった主張の強い野菜が苦手で、中でもシソが苦手ということで面倒なことが多い。

 僕の中で、シソというのは野菜の中でも苦手とする人が多い方の野菜だと思う。その割に、飲食店に行くとシソが入っているにもかかわらず『和風』とだけ謳って、メニュー名にシソが入っている告知をしていないことがあり、知らずに注文し、一切食べられないという経験が何度もある。

 市販の弁当の蓋を開けると、『彩り弁当』などと書かれていただけなのに、ご飯全体に紫色のシソのふりかけがかかっているようなこともある。これには流石に殺意を覚える。『彩り』という表現だけで、ご飯全体にシソのふりかけがかかっていることをどうやって推測すればいいのか。そもそも結構な人が苦手なシソを、どうしてご飯全体にかけてしまうのだ。別にしておいて、購入者の好みでかけて食べるような形式なら何の問題も無い。

 恐らく従業員にシソが苦手な人が一人もおらず、シソのせいで食べられない人がいるなどとは想像もしないのだろう。弁当の蓋を開けた時、従業員からの「良かれと思って」という声と、屈託のない笑顔が紫色のご飯の向こう側に見える感じがとにかく腹立たしいのだ。

 シソ以上に苦手な野菜がパクチーだ。こういう、入っているだけで全体の味を制するような食べ物が苦手なのかもしれない。

 先日、仕事帰りに近くのスーパーに寄った。夜遅かったこともあり、品揃えは壊滅的で、野菜コーナーにも大して野菜が並んでいなかった。ふらっと流しながら見ていると、わずかに残る野菜の中にパクチーを見つけた。

 普段、他の野菜がずらりと並んでいればパクチーなど目に入らないのだが、その時、売れ残ったパクチーと目が合った気がした。ガランとした店内で目が合ってしまうと、どうにも気まずい。売れ残っていることをこちらが認識したとパクチー側に知られた状態で、目を逸らしにくいのだ。

 見つめ合った末、この機会にパクチーを克服してみてもいいかな、という気持ちにさせられてしまい、パクチーを2束購入したのだった。まぁ次の日が休みで、予定もなく暇だったという理由もあったが。

 家に帰り、購入したパクチーを2束並べ、どう食べようか考えた。考えている間にもパクチーからは若干あの独特の匂いが漂っている。

 冷蔵庫を開けると、前日食べた絹ごし豆腐の余りが1パックあった。僕は豆腐を器に出し、食べるラー油をかけて、その上に刻んだパクチーを乗せた。ちょっとした居酒屋で出てきそうな簡単な料理だ。

 食べるラー油でパクチーの味も多少緩和されるだろうという甘い考えを持ちながら、一口頬張った。口の中に広がる味、鼻から抜ける風味、パクチーだ。他の何でもない。豆腐とラー油をどちらも制してしまっている。もはや僕からしてみればただの大きいパクチーだ。食べられたものではない。

 刻んだとはいえ生のパクチーは早すぎたのだ。そう思った僕は、次に冷蔵庫にあったもやしに、少量の刻んだパクチーを加え、醤油とコショウできつめに味付けをしながらフライパンで炒めた。加熱しているし、調味料でごまかされるだろうという算段である。

 出来上がったパクチー風味のもやし炒めを、恐る恐る食べてみた。パクチーだ。もやしの食感よりパクチーの風味が先にくる。口に入る前から鼻先に苦手な匂いがまとわりつき、口より鼻が先に味わってしまっている。

 僕はパクチーに関して、味というよりも匂いが苦手なのだということが分かった。その後も、サラダに混ぜてみたり、油を使って素揚げにしてみたりと、色々試してみたのだが、自分はやはりパクチーが苦手だということを再認識するばかりであった。

 ちなみにパクチーの天ぷらも試してみたのだが、衣とパクチーの相性が最悪で、今後どれだけ美味しいパクチー料理が出て来ようと、パクチーの天ぷらの味を思い出して吐き気を催しそうな程であった。

 大人になると苦手な食べ物は克服できないのか。使わなかった残りのパクチーを見て虚しい気持ちになりながら、ふと子供の頃はどう克服していたのかを思い出そうとしていた。

 両親は、僕の苦手な食べ物に関しては殆ど放置しており、食べられないものは食卓に出さないことの方が多かったのだが、唯一ピーマンだけは克服させられた記憶がうっすらある。やり方はまさに子供相手といった感じで、子供向けのアニメになぞらえて「ピーマン食べられなかったらピーマンマンになれないよ!」という簡単なものだ。

 そう言われた僕は半分泣きながらピーマンを食べられるようになったのだが、今考えると、その頃ピーマンマンというキャラクターを特別好きでもなかったので、ピーマンマンになれないことが響いたというよりは“何かが失われる”という謎の強迫観念に襲われて苦手なことを克服する、恐怖による支配だったのだろう。

 それを思い出した時、もしパクチーマンがいたらどんなキャラクターだろう、と想像することから、苦手を克服する糸口が見つかるかもしれないと思った。

 パクチーマンは当然パクチーの特徴を受け継いでいるので、どこにいても、どれだけ大勢の中にいても、派手な服装や振る舞いで自分を主張しようとするだろう。他人を立てることには気を回さず、自分が! 自分が! と存在をアピールするはずだ。

 数人で会話をしていても、話の中心にいないと気が済まず、人の話を聞いているようで聞いていない。「うん、うん、うん」と一定の相槌を打っているのだが、それは自分の話に持っていく為の助走に過ぎず、相手の話が終わったと同時に間髪入れず自分の話をし出す。会話の終わりは必ず自分の話で、というタイプのキャラクターなのだ。

 そしてとにかく、自分は人とは違うということのアピールが激しく、自分の異常性を発信し、普通と言われることを何よりも嫌っている。目上の人にも敬語を使わず「敬語を使わないのが自分だから」と主張して、他人からそれを指摘されると“多様性”という言葉をしきりに使ってどこかで聞いたような持論をほざく。最初はそのキャラクターで持て囃されているのだ。

 だが時間が経つにつれ、薄っぺらさと、”変わっている”と思われたい自意識がバレ始めて、そのタイミングで「実は嫌な奴」などの噂も出始め、だんだんと嫌われてしまう。しばらくすると見かけなくなり、みんなが忘れかけた頃、久々に姿を現したパクチーマンはすっかり普通の見た目で、敬語も使い、礼儀正しくなっている。「あれ? パクチーマン、あのキャラどうしたの?」と聞くと、苦笑いで「いや、あの時は若気の至りで……」と“若気の至り”という一言で今までの無礼を片付けようとしてくる。

 そんなパクチーマンを見て僕は思うのだ。もともとお前に違和感を覚えていた俺達はいいけど、元のお前のキャラクターを本当に好きだった人達にはちゃんと説明したのか? その人達に「あのキャラクターは全くの嘘でした」という説明はするべきじゃないのか? してないとしたら、そういうところだからな、お前が薄っぺらいって思われていたのは。

 そして、そんなことを言う人もちらほら現れ、パクチーマンはさらに当たり障りのないキャラクターになり、普通を加速させていくのだ。

 そんなパクチーマンの一部始終を思い浮かべることにより僕は、あ、やっぱりパクチー好きじゃないな、と考えが固まるのであった。

 大人になっても苦手な食べ物は沢山ある。これまで苦手でいたものをなかなか好きになれそうにもなく、もう好きなものだけを食べていればいいかもしれない。そう思った。

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次回の更新日は2021年2月26日(金)です。

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