僕の人生には事件が起きない
2018/11/23

ハライチ岩井が近所の歯医者に嫌われた理由

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お笑い芸人・ハライチの岩井勇気による初めての連載エッセイ。お笑いのこと、ラジオのこと、アニメのこと、この世界のこと……独自の視点で日常に潜むちょっとした違和感を綴ります。今回のテーマは「忘れる」です。

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第6回「忘れる」


イラスト:岩井勇気(ハライチ)

 昔から克服できない欠点がある。とにかく何でも忘れてしまうのだ。物、予定、人の名前まで、あらゆるものをすぐ忘れてしまう。それで困ったことが何度もある。

 まず忘れ物。財布、携帯電話、家の鍵は何度どこかに忘れたかわからない。伊達眼鏡をいくつか持っているが、伊達眼鏡と言うのは所詮伊達眼鏡。自分の中で本当の必要性を感じていないのだ。無くても生活に支障はない。故に今まで10個以上は無くしている。

 数年前に、高い買い物をして、それが入った紙袋を持って電車に乗った事がある。あまりに車内が混んでいたのでその紙袋を網棚の上に置いた。しかし『いつもの感じで行くと、これは下車する時に忘れるパターンだな』と不安になり、『紙袋絶対に忘れるな。紙袋絶対に忘れるな』と頭の中で反芻していると、普通に下車駅で降り忘れた。サザエさんみたいなミスだ。すぐに乗り過ごした事に気付き『次の駅で降りて戻ろう』と考えていたら、次の駅で降りた時には紙袋を持っていなかった。これは流石に自分にゾッとした。

 忘れ物をしすぎるので、最近の対策は“無くさないように気を付ける”ではなく、“無くしても極力痛手を負わないように安めのものを買う”になっている。もう無くす事が大前提なのだ。

 しかしこの“忘れる”の本質は忘れること自体にあるわけではない。確認を怠ってしまう事にある。

 楽屋を出る時やタクシーに乗る時など、毎回忘れ物がないか確認しなければならない。自分のような忘れ物の多い人間ならなおさらだ。しかし何故か毎回『大丈夫だろう』『俺が忘れ物をする訳がない』と思ってしまうのだ。今までそれで散々忘れ物をしてきたのに。それでも『今までそれで散々忘れ物をしてきたけど、今回は大丈夫だろう』と思ってしまうのだ。とんだ大馬鹿野郎だ。

『確認を怠らないようにしよう』とあまり思ったことがない。恐らく自分の中で“毎回確認すること”が一番のストレスなのだ。“毎回確認すること”すら忘れてしまいがちなので、常にそれを意識していなくてはならない。それこそがストレスなのだ。常にうっすら“毎回確認すること”のストレスがあるくらいなら、忘れ物をしてしまう方がよっぽどマシだと思ってしまっている。そして全てを忘却の彼方へと葬り去ってしまうのである。

 

 先日奥歯が痛くなってかかりつけの歯医者に行った。昔治療した歯の詰め物の中が虫歯になっていたのだ。治療してもらうと先生が「一旦応急処置をしておきました。次回しっかり治療するんで、それまでに痛くなったらすぐ連絡してください」と言い、その日は帰った。すると2日後、奥歯を堪えようのないズキズキした痛みが襲った。すぐに先日行った歯医者に電話すると、その日はなんと定休日だったのだ。チッ! と思い、仕方なく他の歯医者を探すことにした。

 ネットで検索すると家の近くに開設して間もない歯医者があった。電話をしたら「今すぐ来てもらえれば治療できますよ」と言うので、そこに行くことにした。歯医者に着いて治療してもらうと、さっきまで激痛の走っていた奥歯の痛みは消えた。すると先生が「とりあえずこの歯が完治するまではうちに通ってください」と言うので、しばらくそこの歯医者に通うことにして、帰りに受付で次の予約を取り付けた。

 しかし、事もあろうに僕はその予約を忘却の彼方に葬り去ってしまったのだ。予約は完全に忘れ去られ、気付けば予約した時間は過ぎ、夜になっていた。時間は過ぎてしまっていたが、歯医者に電話し「すいません。今日予約していたんですけど、忘れてしまって……」と言うと「大丈夫ですよ。次の予約どうしますか?」と優しい対応をしてくれた。そして次の予約を取り付けて、それからしばらくその歯医者に通った。

 ところがそこから3回目の予約の時、またも予約を忘却の彼方へと葬り去ってしまったのだ。1度目に予約を忘れてから2回忘れずに通えてしまっていたので油断していたが、僕は全てを忘れて無に帰する怪物なのである。慌てて歯医者に電話し、受付の人がでたので平謝りすると「いいですよ。でも今週はもう予約でいっぱいなので、次回は来週になってしまうんですが大丈夫ですか?」と優しく言ってくれた。ホッとして、その場で次の週の予約を取り付けた。しかし恐ろしいことに、僕はその予約も忘却の彼方に葬り去ってしまったのだった。

 背筋が凍った。予約を忘れ、謝ってもう一度取り付けた予約を忘れてしまったのだ。二重で忘れるという恐怖の事態になった。

 予約をした時点で何かにメモをとる、携帯電話のスケジュールをセットするといった事をしなければならない。しかし何回もある予約の度にそれをやるストレスが、僕には他の人の何倍もあるのだ。それを避けた結果、とんでもないことになってしまった。

 もう歯医者にどんな言い訳も通用しない。かといって何の連絡もしない訳にもいかず、意を決して歯医者に電話した。「本当にすいません。1週間経って予約をすっかり忘れてしまいまして……」とできるだけ反省している声音で電話をかけると、受付の人が「そうだったんですね。次いつ来れそうですか?」と、あっさりした様子でいつも通り優しく対応してくれたのだ。九死に一生を得た気持ちで次の予約をして、もう忘れまい。と思い、予約日当日朝から歯医者の予約の事だけを考え、しっかり時間通りに行った。

 歯医者に着くと、受付の奥にいつも治療してくれている院長先生がいたので「すいません」と呼び止め「先生、前回、前々回の予約を完全に忘れてしまって本当すいません」と言うと、先生は冷ややかなトーンで「あ、忙しかった訳じゃないんですねー」と言った。『あ、嫌われてる』とわかり、一瞬で背中にじっとりとした汗をかいた。

 しかし、そんな出来事があったにも拘わらず僕は次の次の予約を忘却の彼方に葬り去ってしまったのだ。これにはもう恐怖すら感じず無の感情で『あ、もうあの歯医者には行けない』と思った。申し訳ない気持ちと、歯医者側にとっても僕は行かない方がいいだろうという気持ちで、もうその歯医者には行くのをやめた。

 近場で行く歯医者を一つ失った僕は、歯も完治していなかったので元々通っていた歯医者に行くことにした。浮気した後、本命の彼女に会いに行く気分で元の歯医者に行き、名前が呼ばれる。施術台に座って口を開けると先生がいぶかしげな表情で「あれ? 岩井さん、どっかで治療してもらったー?」と言った。あまりの気まずさに『あー、この歯医者ももう来れないな』、そう思った。

 

 その帰り道、僕はさすがにスケジュール帳を買った。

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次回の更新予定日は12月14日(金)です。

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