忘れられない言葉があります。あれは、宝塚を観始めて半年ほど経った頃のこと。終わって外に出るとき、今観たもののあまりの素晴らしさに私が思わずため息をつくと、友人がこう言ったのです。
「男のいない世界って、平和でしょう?」
私は雷に打たれたように、ガクガクと痙攣的に頷いたことを覚えています。確かに、そのときの私の心は、たとえようもないほど平和で、幸福感に包まれていたからです。
宝塚を観る前は、自分が宝塚に夢中になれるのか、少し疑問に思っていたところもありました。それまで夢中になってきたものといえば、ミュージシャンや俳優など、すべて「男」だったからです。宝塚は全員女性で構成されている歌劇団ですから、どんなに格好良くても、女性が演じる男役は「にせものの男」でしかないのでは? その「にせものの男」に、心からキャーキャー言うことができるのか? という気持ちが拭いきれませんでした。
それまでの私は、手の届かない男性に夢中になると、ありえないとはわかっていても、好きなミュージシャンや俳優とどこかで出会って恋に落ちる妄想をしていました。才能が好き、表現が好きと言いつつ、まぎれもなく「男性として好き」でもあったのです。それを恋と呼んでいいのかはともかく、恋に近い好意や欲望を向けていました。
では、そのように愛した男たちのことを、どうして追いかけなくなってしまったのか。それは「つらさの壁」を私が乗り越えられなかったから、という一言に尽きます。恋愛のようで、結局は一方的な気持ちでしかないこと。自分には手の届かない人なのに、現実に彼と会ったり、話したり、付き合ったり結婚したりしている女性が確実にいること。それを考えると、自分という存在のあまりの軽さが悲しくなってくるのです。燃え上がって夢中になればなるほど、「こんなに好きなのに、何もできないんだ」と、報われない「好き」が、むなしいものに思えてくる。自分にとって何より大切な「好き」という感情が、何の役にも立っていないと実感してしまうのです。そういうことを繰り返しているうちに、だんだん好きでいること自体に、喜びよりもつらさを感じるようになっていったのでした。
相手が男だというだけで、私は女だから恋愛できる可能性はあるのだと、無条件に思い込んでしまう。その可能性があるのに叶わないことがつらくて、私は男であるその人本人に近づこうと、髪型やファッションを真似たことすらありました。「本人に近づきたい」という憧れや欲望なら、傷つかなくて済むと思ったのです。でもそれをやってみても、あまりの近づけなさに結局、別の「つらさの壁」が立ちはだかってきたのでした……。
宝塚を好きになったとき、私はその見返りを求める気持ちから解き放たれるのを感じました。ああ、もう、いくら好きになっても、あのときのようなつらい気持ちになることはないんだ、好きな人が自分のほうを振り向いてくれないとか、自分のものになってくれないとか、そういう身勝手で醜い欲望に悩まされずに済むんだ、と感じたのです。
男が舞台の上にいる以上、私はその中から好みの男性を見つけ出し、「あわよくば抱かれたい!」と思ってしまうのをやめることができません。別に本当にどうこうできると思っているわけじゃないのに、舞台から降りさえすれば、ただの男と女であるということから自分の思考が逃れられないのです。そして、「あわよくば抱かれたい」という想いはつのるばかり……。あわよくばとはいえ、あわよくば過ぎます。もうあわよくばはやめたい。しかし可能性がゼロではない以上、そのあわよくばを願わずにはいられないのです。宝塚には、その「あわよくば」がない。私は極めて穏やかな気持ちで、でも最高に興奮しながら、舞台の上の男役を見つめることができたのでした。
宝塚歌劇の男役を見て、私は「にせものの男」だとは思いませんでした。宝塚の舞台の上に立っているのは、子供の頃に憧れた少女マンガや少女小説、映画の世界にいる「理想の男」でした。性別として男ではないことは理解していても、その仕草、喋り方、所作のひとつひとつまでが男の色香に満ちあふれていました。想像できないほどの練習や訓練を経て、磨き抜かれた「理想の男としてのふるまい」を見せてくれている。そのありがたさに打ち震えました。
でも、それを演じているのは女性です。男役のスターを「好きだ」と思う気持ちは、いったい何なのか、最初とても戸惑いました。好きであることは間違いない。恋に近い気持ちもある。けれど、現実に「あわよくば抱かれたい」ではない。この気持ちのゴールはいったい、どこにあるのだろうかと思ったのです。
考えに考え、私がたどりついた答えは「舞踏会で、一曲だけ一緒に踊ってほしい」でした。舞踏会なんてないし、私はダンスを踊れません。けれど、私の宝塚への恋心のゴールは、そこなのです。両想いになれるとは思ってない、けれど、一曲だけ一緒に踊って、私を見つめてほしい……。それが不可能なら、一度でいいから舞台の上から見つめられてウインクをされたい、投げキッスでもいい……。この幸福で切ない気持ちがつらいものになってしまったとき、もしかしたら私は宝塚から離れてゆくのかもしれません。
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