行儀は悪いが天気は良い
2021/10/22

「今からお金借りに行くで」Aマッソ加納が語る、大学進学のために父親と出かけた帰りに食べた中華料理の味

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人気お笑いコンビ・Aマッソの加納愛子さんが綴る、生まれ育った大阪での日々。何にでもなれる気がした無敵の「あの頃」を描くエッセイの、今回のテーマは「中華にまつわるエトセトラ」です。

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 私の人生は中華とともにある。なんの因果だろうか。

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 我が家の出前といえば近所の中華料理屋「飛雲(ひうん)」。

 夜遅く仕事から帰ってきたオカンが疲れた顔で「今日ごはんようせん」と言うと、兄ちゃんと私は大喜びだった。今考えると、晩ごはんを作る気力もないほど疲労が溜まっていることについて少しは労うべきだったが、当時はオカンの「キョウゴハンヨウセン」は出前を呼び寄せる嬉しい呪文でしかなく、続けて親父が「飛雲に電話せえ」と言うやいなや、私たち兄妹は我先にと厚紙のチラシを開いて、干からびているオカンを横目に、漢字が並ぶメニューの中から完成図が想像できる料理を注文した。

「飛雲」はその名前に反して、出前が届くのが驚くほど遅い。お腹が減り家族全員がうっすら機嫌が悪くなった頃に、ようやく玄関から「おっまったせしまっした~~~!!!」とスタッカートが多い陽気な声と勢いよく戸が開く音が聞こえる。地域の人から好かれるそのおじさんの明るさは嫌いではなかったが、私はどこかその余力に違和感を感じていた。もちろんおじさんの「お待たせしました」からは、待たせたことを自覚していることが窺えるのだが、「その明るさ出せる余裕あるってことは、あんまり急いで来(け)えへんかったな?」という思いがちらっとかすめるのである。そしてこれも口には出さなかったけれど、「いつも勝手に戸を開けてるやんな?」と思っていた。

 しかしそんな邪念は、おじさんが岡持ちの銀色の蓋を縦にスライドした瞬間に消える。三和土に片膝をついて、私たちが待ちわびたラーメンや酢豚を笑顔で取り出すおじさんの所作は、制服の白さもあいまって神聖さすら感じさせた。私はトレーナーの袖を手の先まで伸ばして熱くなった器を受け取り、すり足で丁寧に居間まで運ぶ。そしておじさんはお会計を済ますと、また陽気に「まいど~~っ」と言ってのんびりと帰っていった。

 次の出前もあるんやからちょっとぐらい急いだほうがええやろ、とは、すでに箸を持っている私は微塵も思わない。そして飛雲の酢豚は、世界一美味しかった。

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 思春期の中華は、高校三年の冬。ろくな思い出じゃない。

 商業高校であったためクラスの大半は就職を選択したが、私を含む進学を希望する数人の生徒は、みんな推薦入試を受ける。しかし授業料が比較的安い市立大学へ行くには、評定平均の他にいくつかの簿記検定を持っていることが条件になっていた。私はそれらの試験にことごとく落ちたため、検定なしでも行ける私立大学に進学が決まった。

 さて、そうなると入学金である。市立大学を受けられないことが決まったときのあからさまな「なんやねんもう」感から、うちの財政ではかなりきびしいことは分かっていたが、両親からは「おめでとう」以外の言葉を言われなかったので、何とかなったのだろうと思っていた。しかし実際には笑ってしまうほど何ともなっていなかった。

 雲ひとつなく晴れた土曜日、親父から「愛子、ちょっと行こか」と言われ、外に出た。ピクニックにでも向かうような軽い足取りで「ほな今からお金借りに行くで」とすたすた歩き出した親父は、驚いている私に「むこう着いたら、健気な苦学生みたいな顔しとけ」という大ざっぱな指示を与えた。「それどんな顔なん」と聞いたら、「蛍の光で勉強してそうな顔やんけ」とますます意味がわからない事を言われた。

 訪れた大阪・中之島の高層ビルのオフィスで、「加納さんにはお世話になりましたから」と微笑むその人は、どういうコミュニティの後輩だったのか推測することはできなかったが、とても爽やかな人だった。私は眉に力を入れて自分なりの「健気な苦学生顔」を作り、大人同士の会話を無言で聞いていたが、途中で私の顔を一瞬だけ見た親父は、明らかに笑いをこらえた顔をしていた。いやそっちが顔作っとけって言ったくせに、とめちゃくちゃ腹が立ったが、親父も親父で「俺はこんなんやけど、こいつには大学ちゃんと行って好きなことやらせてやりたくてなぁ」と、こちらも柄ではない「健気親父」の演出を頑張っていたので、私も我慢して一時間ほどその三文芝居を続けた。

 なんとかお金を借りることに成功し、「勉強して偉くなって、お父さんラクさせたってね」と私の肩を叩くその人に深々とお辞儀をして、父娘は酸素を求めるようにエレベーターに乗り込んだ。

 ドアが閉まって降下し始めた瞬間、親父はようやく息をつけたことに安堵したのか、「いや~あいつええ奴やな~」と明らかに間違えた第一声を出した。緊張から解放された私は、次から次に色んな感情が押し寄せてきて、「なんやねん!!!」とキレたが、親父は意に介さず、1階に着くと「よし、中華食うか!」と楽しそうに言った。

 文句は山ほどあったが、中華の誘いは「食うけど!」で返してしまう自分が情けない。結局、客のいないガラガラの中華料理屋で、一仕事を終えたかのごとく美味しそうにビールを飲む親父を呆れて見ながら、油でギトギトの回鍋肉を食べた。なんの味もしなかった。

 話すべきことはいくらでもあるはずなのに、親父は「中之島いつぶりやろな~中央公会堂、外観変わっとったな」と絶対しなくていい土地トークを始め、しまいには酒が回って「松島や」のテンションで「中之島 ああ中之島 中之島」と詠みだしたので、「なんやこいつ」以外の感情は一切なくなった。

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 なんとか始まった大学生活では、中華はごちそうに変わった。

 間に合わせの苦学生顔で得た学生生活だったが、家賃3万5000円の安いアパートで一人暮らしをはじめてからは、学業そっちのけで複数の飲食店バイトとサークルに明け暮れた。憧れの映画サークルに入ったが、実際は撮影費や機材費など思った以上にお金がかかり、切り詰められるのは食費だけという状況だった。お昼はサークルの先輩が教えてくれた「25弁当」と呼ばれる彩りが皆無の250円弁当を、キャンパスから10分ほど歩いた路地にある怪しげな店にみんなで買いに行った。夜は近くのスーパーで売っている3個入り100円のコロッケを晩ごはんにした。

 しかし持つべきものはやはりフランチャイズのコンビニで働く友達だ。サークルの同期でみんなからチャーと呼ばれる気のいい友達がすぐ下の階に住んでいて、近くのセブン-イレブンで週3回バイトをしていた。チャーは仲良くなると、コンビニの夜勤を終えた朝方に、私のポストに廃棄で持って帰ってきた食べ物を入れてくれるようになった。私は起きてすぐにポストを開けに行き、「やった~今日はおかず系のパン~」「うわ~肉と野菜のバランス最強のお弁当~」などと喜んでいるのを、新聞配達のお兄さんに白い目で見られたりした。

 そして毎月給料日になると、チャーと一緒に駅前の中華料理を食べに行った。有名店でも人気店でもなかったが、私たちは外食できることが嬉しく「中華うっま!!!」「え、中華ってこんな美味しかったっけ!?」「中華中華中華!!!」「中華最高!!」と、食べてる間じゅうずっと他国の名前を連呼し続けた。食べ終わって二人で部屋に戻ると、チャーは苦味のないやさしいホットコーヒーを淹れてくれた。「私らみたいにさ、今も海外のどっかの日本料理屋でさ、ニホンニホンニホンって言いながら天ぷら頬張る学生っておるんかな~」「そうやなぁ、おるかも知らへんなぁ」チャーはいつも私のバカみたいな想像にニコニコ笑って付き合ってくれて、どんな言葉も否定しなかった。

 後に分かったことだが、チャーは実家からある程度の仕送りをもらっており、あの頃はそこまで貧窮していなかった。もしかしたら異常なほど嬉しそうに酸辣湯麺を食べる私に、無理やりテンションを合わせてくれていたのかもしれない。男女問わず友達の多いのも頷ける、本当に良い奴だった。

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 去年末、うちの会社の社長に食事に連れて行ってもらった。

 いかにも高級そうなコース料理で、一品食べるごとに社長が上品な感想を言い、次の料理が出てくるまでに激励の言葉をかけられるという独特の流れが繰り返された。

 私は可愛がり甲斐のない部下丸出しで「はい」「そうですね」「美味しいです」「頑張ります」の四つで返事をしながら、名前のわからない料理をぎこちない手つきで口に運んだ。隣を見ると相方も同じように慣れない様子で必死に場に合わせていた。

 気疲れをする食事会だったが、お開きになる直前、私の目をまっすぐ見て「来年は、売れよう」と言った社長の言葉に、思わずグッと来てしまった。そうか、売れたらこういうお店にも平気な顔で来れるようになるんやな、頑張ろう、と思った矢先に、社長は「たまにはいいね、中華も」と言った。私は「そうですね」と返しながら、頭の中で「中華やったんかい!!!」と叫んで、ドラの音が一発鳴った。

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加納愛子(かのう・あいこ)
1989年大阪府生まれ。2010年に幼馴染の村上愛とお笑いコンビ「Aマッソ」を結成。ネタ作りを担当している。2020年デビューエッセイ集『イルカも泳ぐわい。』(筑摩書房)が話題に。文芸誌で短編小説を発表するなど、いま最も注目を集める書き手の一人でもある。

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