行儀は悪いが天気は良い
2022/11/04

先生の独特の指導法や将来の夢など……Aマッソ・加納が振り返る小学生時代のバスケ

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人気お笑いコンビ・Aマッソの加納愛子さんが綴る、生まれ育った大阪での日々。何にでもなれる気がした無敵の「あの頃」を描くエッセイの、今回のテーマは「将来の夢なに?」です。

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 昼下がりの午後、番組のロケで行った河川敷で、サッカーをしている子どもたちと話すことがあった。夏休み中らしく、午前中に塾の夏期講習を終えてからここへ来たと教えてくれた。サッカーチームに所属しているが、今日は休みなので自主練習をしているという。日常的に小学生や中学生のスポーツ少年と話す機会がほとんどないので、その溢れんばかりの若きエネルギーに少し気圧された。

 こちらは灼熱の太陽の下、歩くだけで体力を奪われている。気温は三〇度を超えており、カメラが止まるたびに「あちい」と「しんどい」が止まらない。一方子どもたちの表情は、気温なんて概念がないかのように涼やかだ。テレビのスタジオや劇場ではフレッシュな若手芸人として「やったるでぃ!」なんて元気にふるまっているが、屋根がないと途端に過度な「子どもはすごいねぇ」モードになるからいけない。彼らは親に買ってもらった海外のクラブチームのユニフォームを着ていた。憧れを全身にまとっている。外からは、そういった純粋な夢を持つスポーツ少年たちに見える。

 が、これは大人の悪い癖だ。大人はすぐに子どもをピュア視する。私も彼らと似たような環境で育った小学生だったが、「まっすぐな心でスポーツに夢中になっている子ども」とはどうも言い難かった。なにかと感情が忙しかった記憶がある。少年たちも、もしかしたら今まさにそういう毎日を過ごしているかもしれない。
 
 
 
 小学三年生のとき、母親の勧めでバスケットボールチームに入った。「私もやってたからあんたもやってみ」という、どこの家庭にもよくあるような、理由になっていない理由でのスタートである。小学生が行うバスケは「ミニバス」と呼ばれる。チームには同級生の女子が私を含めて一二人いて、仲良くなったりギスギスしたりを繰り返しながら、卒業までの四年間を共に過ごした。

 三年生の間はほとんどコートには入れてもらえず、体育館の隅に並んで立ち、ひたすらその場でドリブルの練習をさせられていた。いつものように上級生の練習を見ながらダンダンダンダンやっていたとき、隣にいたユイちゃんが、私の耳元で「今日水筒にジュース持ってきてん」と囁いた。「えっ」と私は驚いて素っ頓狂な声を出した。

 練習に持ってきていい飲み物は、水かお茶かスポーツドリンクと決められていた。それなのにユイちゃんは、当時人気のあった「桃の天然水」という透明の桃ジュースを水筒に入れてきたのだという。「これやったらバレへんで」と言って、ユイちゃんは悪い顔で笑った。

「できることならジュースを持っていきたい」という発想すらなかった私は、知らない間に計画を練り実行したユイちゃんがたちまちとんでもなくすごい奴に見えた。私の頭の中が「ダンダンダンダン……」しかなかった間に、だ。

 私は周りを見て、みんなこうしてダンダンしているだけのように見えて、全然関係ないことを考えたりしているのだろうか、と思うようになった。というか、ダンダンしている間、頭の中も「ダンダンダンダン……」になるのはバカだけなんじゃないのか? 私以外にも脳内ダンダン勢はいるのだろうか? そんなことを考えだすと、ドリブル練習に全く集中できなくなった。

 四年生になった頃、同級生の中でただ一人、カナだけが上級生に混じって試合に出られるようになった。全く同じ時期に入部したのに、この差はなんだとその時はすごく悔しかったが、今思えばカナは私のダンダン中に、力の入れ具合、腕や腰の使い方に集中し、試合でのイメージを膨らませていたのだろう。ちなみに、うっすら予想していた通り、ユイちゃんは六年生の最後の試合までスタメンになることはなかった。そりゃそうだ。

 チームの指導者である亀井先生は、色んなチームを強豪校に押し上げた凄腕の人であった。亀井先生の下でバスケがうまくなりたいと、他校からわざわざ転校してきた男子生徒もいたほどだ。どこから聞いたのか、「前の学校までは、平気で生徒をビンタしていたらしい」という噂が全員の耳に入っており、いつ自分に平手が飛んでくるかと、練習中は常に亀井先生の一挙手一投足に気を張っていた。

 小学校の教諭でもある亀井先生は、独特の指導法を展開していた。モリはシュートを打つ時に指先が外に開いてしまうのが癖で、何度言っても直らないのでついに練習から外され、「人差し指と中指をゴールに向ける、って壁に向かって一〇〇回言え!」と命令された。私は心の中で「なんでやねん」と思った。しかしモリは「はい!」と返事して壁の前に立ち、大声で「人差し指と中指を……」と言い始めた。私たちはそれを気にしていない風を装い、練習を始めなければいけなかった。

 長身でセンターのポジションのアイカが、ゴール下でパス回しを続けていると、練習を止めさせ、「先生はな、日頃宝くじ当たったらいいな~当たったらいいな~と思ってる。でも当たらへん。なんでかわかるか?」と聞いた。アイカはすぐさま「わかりません」と言うと、「買ってないからや!!! お前もシュート打たな入らんやろ! 打てぇ!!」と怒鳴った。
 
 
 
 先生は生徒がミスをすると練習を止めさせ、必ずその生徒に質問をした。それに対して、その答えもしくは「わかりません」という返事を、必ず三秒以内に答えないといけないルールがあった。ある時、物静かなミユが「今のプレイは、どう足を動かしたらよかったか分かるか?」と先生に聞かれた。射るような目で先生に見られたミユは、質問を投げかけられたまま固まってしまい、ついに「こいつが答えるまで全員座れ」という命令がくだった。

 一人で立たされ晒し者になったミユは、焦りでなおさら言葉が出なくなってしまった。二〇~三〇人ほどの生徒がいる体育館は静まり返った。この時も、私は「みんな今なに考えてるんやろ」と思った。ダンダンダンダンもない静寂の中で、みんな、ミユだけを見つめていた。「早く『わかりません』って言えよ」とイラついている子もいれば、「座れてラッキー」と思っていた子もいただろう。優しい子は、ミユに同情していたかもしれない。私は「そのどれもおるやろうなあ、しかし、まあ、シーーーーーーーーーーン」と考えていた。ユイちゃんを見ると、指の皮を取っていた。さすがユイちゃんだった。

 五分ほどに渡る沈黙の末、ミユは絞り出したような声で「わかりません……」と言った。先生はズカズカと歩いていき、ミユの持っていたボールを奪い、右足を後ろに引いて「こう」と言った。長いフリの後のシンプルなオチのようで、今だったら確実に吹き出していたが、その時はそれはただの練習再開の合図だった。私はその後もしばらく「こう」おもろかったな、と一人でしがんでいたが、誰かに話すことはなかった。

 一つ上の学年がいなかったので、私たちは五年生になるとチームの主力メンバーになった。練習は厳しさを増し、よりバスケ中心の生活になった。その頃から、チームメイト同士でなぜかバスケへの夢中度を確かめ合う会話が増えた。練習が休みの日に、チームの誰かと遊びの約束をしても、ふんわり「公園でバスケやるんかな?」みたいな空気が流れた。特にしんどかったのが「将来の夢なに?」というやり取りだ。ためらいなく「バスケットボール選手」と答える子には正直「もうええって、一途ぶって」と思ったし、「保育園の先生」と答える子は「え、じゃあなんでバスケやってんの?」と思った。私はスタメンと喋るときは「ん~まあ今はバスケットボール選手かな~」と答え、ユイちゃんみたいな子と喋るときは「まだわからんな~」と答えた。吉本新喜劇に入りたいとか雑貨屋さんになりたいとか、その瞬間瞬間で魅力的な夢はあっただろうが、チームメイトだけでなく、いま自分自身がしている選択の肯定も必要だった。高学年になると、潜在意識の中で「なんでバスケしてるんやっけ?」という気持ちと戦っていたのかもしれない。自覚的に「今この瞬間ってなに?」と思ってしまっては、きっとしんどすぎる練習に耐えられなかったのだ。

 厳しさのわりにはさほど輝かしい戦績をあげなかった我がチームの、引退試合の大会に臨む気迫はただならぬものがあった。予選で強豪校に当たることを知った私たちは、人生ではじめて「終わりの予感」を経験する。このしんどかった四年間と、四年間に抱えていた感情が全て、本当に終わるのだと思った。最後の試合で、私は相手チームの選手のユニフォームを引っ張りまくった。自分でもそんなラフプレーをするなんて信じられなかった。相手が憎かったのではなく、自分の存在を証明したい動物になっていた。視界に入っていたはずなのに、先生は注意しなかった。ベンチで声を嗄らして指示を出し、先生もなにかの感情と戦っていたのだろうか。「何してるんやっけ、教え方合ってたんやっけ」と思っていたのだろうか。

 もうすぐ、あの時教えてくれていた先生の年齢と同じになる。今の私は、毎日間違いだらけだ。

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加納愛子(かのう・あいこ)
1989年大阪府生まれ。2010年に幼馴染の村上愛とお笑いコンビ「Aマッソ」を結成。ネタ作りを担当している。2020年デビューエッセイ集『イルカも泳ぐわい。』(筑摩書房)が話題に。文芸誌で短編小説を発表するなど、いま最も注目を集める書き手の一人でもある。

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