行儀は悪いが天気は良い
2023/01/27

「ねこが好き」と素直に言えない理由……Aマッソ加納が明かした、うまく言葉にならない気持ち

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

人気お笑いコンビ・Aマッソの加納愛子さんが綴る、生まれ育った大阪での日々。何にでもなれる気がした無敵の「あの頃」を描くエッセイの、第18回のテーマは「ねこが好き」です。

 ***

「ねこが好き」の前で、私はとにかく無力だ。そして何よりも「ねこが好き」に怯えている。

 こちらが油断している時に、相手がふと「ねこが好きなんですよ」なんて言おうもんなら、たちまち全身の筋肉が硬直し、脳がグギュグギュと歪んだ音を出しはじめる。顔に微笑をたたえてはいるが、心の表情はピクピクと痙攣が始まる。「う、うわぁ、『ねこが好き』が、きたぁ」と思うだけで、体温に変化が起こったのがわかる。けれど上がったのか下がったのかはわからない。

「ねこが好き」と発言するものの一点の曇りもない瞳、声。それはそうだ。ねこが好きなことに、何の後ろめたさも感じていない。自分が相手に混乱や焦燥をもたらしているなんて思いもよらないだろう。教えてほしい。そのとき私は、どうしたらいいのだろうか。なにを、どのように思い、受け入れ、返せばいいのだろう。

 突然目の前に現れた(ように感じる)ねこに好意を抱いている者に対し、「なんで?」と聞くことはできない。理由はわかっている。かわいいからである。ねこはかわいい。私自身、ねこはとてもかわいいと思っている。じゃあ「ねこが好き」と発言した人に対して「みんなそうやろ」と言っていいか? 全くもってそれはよくない。相手にとって私は他人の好みを否定したいだけの性悪人間になってしまう。そして、「いかにも当たり前のことを自分のパーソナリティーとして粒立てて話していることへの批判」とも取られかねない。

 かといって「奇遇、私もねこが好き」はあまりにも不用意な返事である。今後私がなにか話すたびに「ねこ好きがこんなことを言っている」と思われる可能性がある。「ねこが好き」は、受け手にいともたやすく「ねこ好きな人」に変換されてしまう。心配でしかたがない。大丈夫だろうか。もし万が一「私この前むかついたことあってんけど」が「ねこ好きの私ですらどうしても許されへんことがあってんけど」に聞こえていたとしたら、もう二の句は継げない。

 私はずっと、「こいつはねこが好きなんじゃないか」と思われることに恐怖を抱いている。私という存在は「へえ、ねこが好きなんだ」と誰かに思われた時点で消滅するような気すらする。それでも、そんな私でも、「ねこが好き」だと言ってしまうことがある。なぜそんな最悪で悲惨なことになるのかというと、本当に情けない話、「ねこが好き」と思ってしまうことがあるからなのだ。頭の中で警報ランプが鳴っているというのに。「ちょっと! 『ねこが好き』って言っちゃってるよ!」と忠告が聞こえる中、私の口はだらしなく「エオアウイ」と動いている。恥ずかしい。性欲について語ることよりずっと、ねこが好きなこの本能が恥ずかしい。なんでみんなは恥ずかしくないのだろうか。私は目の前の人が「ねこが好き」と発することを止めることもできない。「それ聞いてどない思たらええねん」とクールに返すこともできない。「ねこが好き」と人に言われることで、誘発的にねこのことを考えさせられ、ねこに思考を奪われていく時間をどうしようもできない。

 なぜここまでねこへの感情だけに執着してしまうのか、自分の中でも全然説明がつかない。

 昔は決してそうではなかった。勇気をもって言うが、かつて実家で猫を飼っていた。私はここまで、ひらがな表記で「ねこ」と書いた。ねこへの気持ちを自覚してしまった瞬間、「猫」は「ねこ」になるのだ。「ねこ」のほうが、どうも意識的である。

 忘れもしない、小学校6年にあがる春休みだった。仲の良い友達と通っていた行きつけの社宅公園で、子猫が3匹捨てられていた。まだまともに目も開いておらず、つい何日か前に生まれたばかりのようだった。近くに親猫がいる様子はなく、ダンボールの中でそれぞれの境目がわからないぐらい身を寄せ合って、ほとんど聞き取れない声でミャーミャーと鳴いていた。

 義侠心と好奇心がぶつかったときの爆風に背中を押され、私と友達は一目散に家へと走った。それぞれが熱弁をふるい、駄々をこね、母親の「動物なんか飼えへん」「面倒みられへんやろ」をなんとか倒し、説得に成功した。友達が1匹、私が2匹連れて帰ることになり、きょうだいは離れ離れになった。

「猫が家におる!」そのインパクトはすごかった。私は毎日飽きることなく2匹を眺めた。自分でちゃんと世話をすると言った約束は早々にやぶったが、文句を言いながらも母親は仕事の合間にミルクをやったりトイレの砂を交換しに帰ってきてくれた。猫の体はあったかくて、猫は毎日寝て起きて、そして食べた。私と同じように、どこまでも生きている動物だった。

 数日間の命名会議を経て、母親がなかば強引に2匹を「はな」と「さくら」と名付けた。春にやって来たから、ということだったが、私は不服だった。そもそも花は桜を内包している。「はな」の子どもが「さくら」なら分かるが、きょうだいであれば平等に花の種類をつけるべきだろう。もう1匹を連れて帰った友達の母親は、同じ理由で猫に「April(アプリル)」と名付けていた。なんてスタイリッシュな命名であることか。しかし圧倒的に一番猫の面倒を見ている母親に決定権があるのは当然で、家族の誰も異を唱えなかった。名付けられたその日から、はなとさくらは正式に我が家を住処とする飼い猫となった。

 2匹がうちにきて一ヶ月を過ぎた頃に、驚くことが起こった。2匹のおしりの下に、ポコッと丸いきん玉が出てきたのだ。気がつかなかったが、2匹はオス猫だった。私はチャンスとばかりに母親に改名を申し出たが、「もう決めたんやから」と、取り合ってもらえなかった。書類で届け出ているわけでもあるまいしと思ったが、たしかにこの一ヶ月の間にすでに幾度となく呼んだ名前に愛着も湧きはじめていたのも事実だった。見た目も名前にあまり似つかわしくなかったが、はなはもうはなでしかなく、さくらはやっぱりさくらだった。

 猫はすくすく大きくなった。2匹は仲良くやっていた。数ヶ月が経ち、友達と計画して「きょうだいの再会」をやってみようということになった。学校から帰ってきて、誰もいない私の家にアプリルを連れてくることになった。感動の瞬間になるだろうと思ったのが大間違い、アプリルはケースから出た瞬間から臨戦態勢、はなとさくらもアプリルを見た途端に毛を逆立てて、聞いたことのない低い鳴き声を出した。もちろんお互いのことを覚えている様子は1ミリもなかった。睨み合った状態で一触即発のただならぬ空気が漂い、私と友達はあまりの恐怖に一歩も動けなかった。壁に張り付いたまま、「ど、どうする……?」「どうしよ……」と固まっていたが、このままでは3匹とも大怪我をしてしまうと思った私たちは、泣きそうになりながら2人でアプリルを捕まえ、急いでケースに戻した。私ははじめて猫の中に獣の魂をみた。

 猫はなついたりなつかなかったり、やっぱり気ままに生きていた。同居してはいたが、2匹が家族であるという意識はなぜか生まれなかった。家族の誰も、猫に首輪をつけようとも言わない。友達の家に遊びに行くと、アプリルはかわいい首輪に小さなスカーフを巻かれていた。どこへ行くにもアプリルを連れて行き、過度に依存しているようにも見えたが、それは間違いなく家族という扱いだった。

 猫との思い出を反芻しても、特別な感情は湧き起こらない。私は中学へあがり、買ってもらったばかりのセーラー服の上に猫が寝ていて、毛だらけにされてむかついた、ということを記憶している。たまに機嫌が良い日には、猫用のクシで毛を整えてあげた。母親が猫を風呂に入れるとき、水を嫌がって必死に抵抗され、毎度傷だらけになるのを見て親父は笑っていた。こたつで寝ている私の胸の上で猫が寝て、苦しさでよく悪夢を見た。2匹は成長とともに外への関心が抑えられなくなり、高校へあがる頃には帰ってこなくなった。さくらはそのままどこかへ行った。はなは野良猫と喧嘩したのか、首に大きなキズをつくって帰ってきて、ほどなくして死んだ。私と猫は、そこで途切れた。次に意識したときにはもう、猫はねこだった。
 
 
 
 書いていてだんだんとわかってきた。未熟な頃の記憶とセットになっている分、ねこはやはり私の本能に近い部分を刺激している。「かわいい」「触れたい」という感情しか表面化していないが、本当はそんなことを感じなくても生きていけるようになりたい、そこから脱却したいと願っているのだ。そんなことは無理なのに。好きな作家の自宅インタビューの写真、その膝の上にねこが乗っていて小さく失望したこと。年配の人から送られてくるLINEスタンプ、ねこが「了解」と言っていたこと。アイドルがねこ耳をつけていたこと。もちろんかわいい。全部かわいい。全部かわいくて嫌気がさす。「ねこがかわいい」に生活に入りこまれている他人にも自分にも。ねこだけじゃない。赤ちゃんも洋服も誰かの言い間違いも、「かわいい」という感情を抱かないと生きていけないことが怖い。でも「ねこがかわいい」が特別に怖い。いや、本当は怖くない。本当は、猫もかわいかった。はなとさくらがかわいくて幸せだった。そんな過去が積み重なって今が形作られた。

 昨日だって、ペットショップの引力に負けないように踏ん張って、商店街をずんずん進んだ。そんな私が嫌いで、大好き。どっちが本当の私かなんて、聞かないでほしい。

(Aマッソ加納愛子さんのエッセイの連載は毎月第4金曜日にブックバンで公開。加納さんの芸風とは一味違った文章をお楽しみください)

 ***

加納愛子(かのう・あいこ)
1989年大阪府生まれ。2010年に幼馴染の村上愛とお笑いコンビ「Aマッソ」を結成。ネタ作りを担当している。2020年デビューエッセイ集『イルカも泳ぐわい。』(筑摩書房)が話題に。文芸誌で短編小説を発表するなど、いま最も注目を集める書き手の一人でもある。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加