平成ヒット曲史
2019/10/18

昭和の「オバさん」と令和の「女性」 平成4年の「私がオバさんになっても」(森高千里)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第4回は、森高千里の「私がオバさんになっても」です。

平成を経て「女性」はどう変わったのか


森高千里「私がオバさんになっても」

「すべての女性に勇気を与えた歌です!」
 1992年の紅白歌合戦。紅組司会の石田ひかりはこう告げた。レザーの上着とフリフリのミニスカートを身に着けた森高千里が、まばゆいスポットを浴びてこう歌う。

 私がオバさんになっても ディスコに連れてくの?
 ミニスカートはとてもムリよ 若い子には負けるわ

 この年、23歳となった森高はこの曲で紅白への初出場を果たしている。
 レコード産業には明らかに好況が訪れていた。それを後押ししたのは、この年に登場した通信カラオケだった。それまでの主流だったレーザーカラオケに対して、楽曲データをリアルタイムに配信できるため、CDの発売日と同時に楽曲を歌うことができるようになった。カラオケボックスが本格的に普及し、10代や20代が新曲をこぞって歌うようになった。
 1992年のオリコンのシングル年間TOP10には、米米CLUB「君がいるだけで」、浜田省吾「悲しみは雪のように」、B’z「BLOWIN」、大事MANブラザーズバンド「それが大事」、サザンオールスターズ「涙のキッス」、とんねるず「ガラガラヘビがやってくる」、槇原敬之「もう恋なんてしない」などの曲が並ぶ。どれもドラマやCMやバラエティ番組でたびたび流れ、時代を彩ったミリオンセラーだ。
 そんな中、「私がオバさんになっても」は森高千里の代表曲の一つとなったが、セールス面だけを見れば、この曲は決して大ヒットと言えるわけではない。オリコン週間最高位は15位。斉藤由貴主演のドラマ『まったナシ!』主題歌として話題を呼んだが、シングル年間ランキングではTOP100にも入っていない。
 しかし、この曲は「平成という時代」の一つの側面を象徴している、と筆者は思う。
 第二次世界大戦とその後の高度経済成長を経た「激動の昭和」に対して、平成の時代は、日本社会の枠組みは大きく変わっていないように見える。しかし、その内側ではゆっくりと、しかし確実に変化が起こっていた。この連載でも後に「世界に一つだけの花」の項で触れることになるが、社会が人々を縛りつける軛(くびき)が少しずつ溶けていったのが、平成という時代だった。
 その象徴の一つが、女性の年齢のあり方だ。

 女ざかりは19だと あなたがいったのよ

 森高自身が作詞を手掛けた「私がオバさんになっても」には、こんな一節がある。これは、あるスタッフが実際に彼女の周辺で口にした言葉なのだという。
 20代前半の森高にとって、仕事場にいるのは年上の男性がほとんどだったはずだ。「女ざかりは19」というのは何気ない会話の中の一言にすぎなかったのかもしれないが、しかし森高には聞き逃がせなかった。「女ざかり」とは何か。それを男性が年齢で勝手に決めるとはどういうことか。
 2010年代の現在なら、女性の年齢を揶揄し差別する言い方はセクシャルハラスメントに該当するとされるだろう。しかしバブル期には女性の結婚適齢期をクリスマスケーキに喩えて26歳以降を売れ残りとする「クリスマスケーキ理論」なる言葉すら飛び交っていた。
「セクシャルハラスメント」という言葉は、1989年の「新語・流行語大賞」の新語部門・金賞を受賞している。この年にセクハラを理由とした初の裁判があり、その後も訴訟が相次いだことでセクハラという概念は急速に広まっていた。しかし「何気ない冗談や親愛の情のつもりだったのにセクハラなんて」という男社会側の違和感は、その後も昭和の残滓として残り続けることになる。

 私がオバさんになったら あなたはオジさんよ
 かっこいいことばかりいっても お腹がでてくるのよ

 曲の後半で森高はこう歌う。そのキュートな“反撃”を指して、石田ひかりは「すべての女性に勇気を与えた」とこの曲を紹介したのだろう。
 しかしその後の森高のキャリアを踏まえて考えると、この曲は、一つの予言のように作用しているようにも思える。

「アイドル」と「アーティスト」の境目で

 森高千里がデビューしたのは1987年。きっかけはポカリスエットのイメージガールコンテストのオーディションだった。子供の頃の憧れはピンクレディー。『ザ・ベストテン』を観て歌謡曲を聴いて育ち、中学時代にはデュラン・デュランのドラマー、ロジャー・テイラーに憧れた。高校1年生の時にバンドを組んでドラムを担当。レベッカのコピーをしていたという。
 そんな熊本の普通の女子高生だった森高は、高校2年生の夏休みに受けたコンテストで1万人を超える応募の中からグランプリを獲得。一躍シンデレラ・ガールとして世に出ることになった。
 しかし、当時は80年代のアイドルブームが急速に失速していた時代だ。おニャン子クラブを世に送り出した『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)は1987年8月に放送を終了。工藤静香や菊池桃子など当時の人気アイドルはこぞって「アーティスト化」をはかっていた。
「“アーティスト”なんて呼び方があるなんて知らなかったのに、ある日突然“アーティスト工藤静香”みたいに雑誌とかで書かれるようになった」(『Rolling Stone 日本版』2015年3月号)と、工藤静香自身、後のインタビューで当時の風潮を困惑と共に振り返っている。
 森高千里が世に出たのはそういう時代だった。

 デビュー直後は、どんな方針でどんな活動をしていったらいいんだか、わたしもスタッフもまるでわからない状態だったから、自信を持って「アイドルです」とも「アーティストです」とも「どっちでもいいんです」とも言えなかったんです。(『STEP BY STEP』)

 所属事務所やレコード会社のスタッフは「アイドルではなくアーティスト的な活動をしていこう」という方針を固めていたが、何がアイドルで何がアーティストなのか、その境目は定かではなかった。女優、バラエティ番組への出演と、仕事は選ばなかった。
 デビュー当初は歌うのも苦手だったという森高は、そんな浮ついた状況で生じる数々の疑問を一人で抱え込み、結果、ストレスが原因で入院する。病名は急性腸炎。それが歌手に専念する大きなきっかけになった。
 その前年から作詞を手掛けるようになったのも大きかった。最初に書いたのは「ミーハー」という曲だ。

 お嬢様じゃないの 私ただのミーハー!
 だからすごくカルイ 心配しないでね

 歌詞のきっかけになったのはデビュー当時のおとなしく引っ込み思案なイメージへの違和感だった。入院の体験からは「ストレス」という曲ができた。自分の実体験をもとに、平易な言葉ながら鋭い視点を持った歌詞を書くようになった。
 衣装は目立つようにと自らこだわったミニスカート。楽器の演奏にも取り組み、ライブではギターやドラムを演奏しながら歌うパフォーマンスを見せるようになった。栃木県足利市を舞台にしたバラード「渡良瀬橋」(1993年)も支持を集め、作詞家としても表現の幅を広げていった。
 芸能事務所のイメージ戦略としての「脱アイドル」ではなく、アイドル的なイメージを振りまきながら、本質的な意味でアーティストとしての表現活動に携わることで、「自ら作詞した曲を歌う女性ソロシンガー」としての道を切り拓いたのが森高千里だった。

阿川佐和子と森高千里

「私がオバさんになっても」のリリースから4年後の1996年、雑誌「週刊文春」の人気連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」で、森高千里はエッセイストの阿川佐和子と対談している。この記事の内容、そこに表れる2人のスタンスの違いが、とても興味深い。
 このときの森高千里は26歳。ホストの阿川佐和子は42歳。記事のリード文には「森高千里さんが作詞した、『私がオバさんになっても』という曲に、以前よりわだかまりを持っていたアガワ。『今日は、オバさんになるとはどんなものか、分からせてあげようじゃないの』と、若い女性への嫉妬を丸出しにして、大変な意気込みで対談に臨んだのであった」とある。
 つまり、42歳の阿川佐和子は「オバさん」として16歳年下の森高千里に初対面を果たしたわけだ。2人の対話は次のように繰り広げられる。

阿川 オバさんというのは、幾つぐらいからだと思ってますか。
森高 私は、年齢に関係なく、その女性が自分でオバさんだと思った瞬間からオバさんだと思うんですけど。
阿川 甘い!(笑) 自分がそう思っていなくても周りが許さない時が来るの。まず友達の子供に会ったとき、「おばちゃん」って呼ばれるの。次に、ふと気がつくとお腹が出てきてる(笑)。
森高 ……?
阿川 それから、あらゆることに腹が立つようになってくる。
森高 ……?
阿川 常に紙袋を下げて歩いたり、両足を開いて立ったりしませんか(笑)。
森高 まだ、ないです(笑)。
阿川 立ち上がるときに「よいしょ」と言ってるとか。
森高 あ、「よいしょ」は若い頃から言ってたかもしれない。「さてと」とか。早いですかね、私、オバさんになるの(笑)。
阿川 まあ、もう少しでしょう(笑)。

 阿川佐和子は「私は歌を作りたい心境です。タイトルは『私はオバさんなんだけど』。10年後くらいには、私の気持ちもわかっていただけるでしょうか」と記事を締めくくっている。
 しかし、その目論見は外れたと言わざるを得ない。
 森高は1999年に俳優・江口洋介と結婚。2000年2月に長女を、2002年5月に長男を出産し、子育てに専念するため休業する。そして10年後の2012年、かつての阿川と同じ42歳となった森高はデビュー25周年を機に本格的に音楽活動を再開させた。
 そこにいたのは、かつてと変わらぬ美貌を保った森高千里だった。
 ベストアルバムをリリースし、YouTubeの公式チャンネルに自らの楽曲のセルフカバー映像を公開。村上“ポンタ”秀一など第一線のミュージシャンが称賛するドラムの腕前を筆頭に、歌手だけでなく様々な楽器をこなすミュージシャンとしての成長も示した。その一方でテレビの音楽番組の司会をつとめるなどメディア露出も増やした森高は「年齢に関係なく、その女性が自分でオバさんだと思った瞬間からオバさんだ」という言葉を自ら証明してみせた。
 2017年、デビュー30周年を迎えた森高は、NHK『おはよう日本』のインタビューに応えてこんなコメントを残している。

10代から20代、そして30代、40代になって経験してきた、いわゆる女性の強さって、たぶん年齢がたてばたつほど、いい意味で強くなると思うんですよね。(NHK『おはよう日本』2017年6 月10日放送「けさのクローズアップ」)

 こうして、森高千里は、歳を重ねることを肯定的に捉える女性のロールモデルの一人になった。「私がオバさんになっても」という曲が本当の意味で「すべての女性に勇気を与えた」のは、最初に歌われてから20年以上経った後だったのではないかと思う。

 ***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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