平成ヒット曲史
2019/11/15

ダンスの時代の幕開け 平成5年の「EZ DO DANCE」(trf)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第5回は、trfの「EZ DO DANCE」です。

時代の立役者、小室哲哉


「EZ DO DANCE」

 小室哲哉は、90年代のJ-POPにおける主役の一人だ。
 彼は間違いなく時代の寵児だった。手掛けたヒット曲も枚挙にいとまがない。安室奈美恵、globe、trf(1996年にTRFに改名)、華原朋美、hitomi、鈴木あみなど、数々のアーティストをブレイクに導き「小室ファミリー」として華々しく世を席巻した。
 音楽シーンで「プロデューサー」という肩書きが当たり前に通用するようになったのも、小室の登場以降のことだ。もちろん、歌謡曲の時代にも、その役割を担っている人間は多くいた。作詞家がいて、作曲家がいた。アレンジやサウンドを手がける編曲家がいた。アーティストの発掘や育成、イメージ戦略は主にレコード会社のスタッフが担っていた。
 しかし小室哲哉が革新的だったのは、そのすべてを一手に引き受けたことだった。小室は作詞家、作曲家、編曲家すべての部門でシングル総売上枚数の歴代ベスト5にランクインしている(オリコン調べ、2019年時点)。これを達成しているのは彼だけだ。シンセサイザーのプログラミングを駆使し、楽曲制作にまつわる作業を「オールインワン」で手掛ける。だからこそ、メロディにも、サウンドにも、言葉にも彼自身の作家性が克明に刻み込まれた。
 彼自身も積極的にメディアに露出した。
 篠原涼子 with t.komuro「恋しさと せつなさと 心強さと」(1994年)や、ダウンタウンの浜田雅功が歌ったH Jungle With t「WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント」(1995年)のメガヒットもあって、「With t」という言葉が一つのブランドになった。

カルチャーを作るということ

 こうして名実ともに時代を象徴した彼の数々のヒット曲から、本書ではtrfの「EZ DO DANCE」を選びたい。
 何故なら、この曲は小室が、そして当時は日本の音楽業界において全く存在感のなかったエイベックスというレコード会社が、明らかに“仕掛けにいった”象徴の曲だからだ。「ダンス」をキーに、平成の時代の新しい音楽の潮流を作ろうとした。そして、それが形になった。
 発売は1993年6月21日。trfのメジャーデビューから2枚目のシングルだ。決してすぐに売れたわけじゃない。オリコンチャートは最高位15位。しかし秋頃からじわじわとセールスを上げ、グループはこの年の12月16日発売の「寒い夜だから…」で本格的にブレイク。続く6枚目のシングル「survival dAnce ~no no cry more~」(1994年)から5作連続でミリオンセラーを達成している。
 1993年のオリコン年間シングルCDランキング1位はCHAGE&ASKA「YAH YAH YAH」。以下TOP10にはB’z「愛のままに わがままに 僕は君だけを傷つけない」「裸足の女神」、ZARD「負けないで」「揺れる想い」、WANDS「時の扉」、中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」などの曲が並ぶ。
 このランキングから読み取れるのは、1993年がビーイング系の全盛期だったということだ。B’z、ZARD、WANDS、T-BOLAN、大黒摩季などビーイング系列のレーベルに所属するアーティストたちが次々とヒットを飛ばした。CMやテレビ番組のタイアップで楽曲が大量にテレビに流れる一方、本人の音楽番組やライブなどの露出は意図的に抑えられ、それがCDセールスに結びつくという手法が「ヒットの方程式」として用いられた。
 しかし同時に、次の波は確実に訪れていた。その象徴となったのが、8月7日に東京ドームで行われた「avex rave ‘93」。5万人を動員したこのイベントを、この年に刊行された書籍『告白は踊る』で小室自身はこう振り返っている。

 このイベントのお陰で、多くの言葉で補足しなくても、「レイヴ」は一般用語として機能するようになっただろう。そして、日本で初めての大規模なレイヴとなったこのイベントは、ひとつの文化(カルチャー)的現象であった。
 (中略)もし2000年12月に20世紀を振り返るテレビ特番などあれば、‘93年の夏は涼しかったが、若い女性達は熱かった、なんてナレーションと共に扇子を持って踊る、お立ち台ギャルの映像が流れるかもしれない。その程度だろうが、それで十分だろう。現象としてはそれでいい。大事なのは、そこから何を読み取るか、だ。(『告白は踊る』)

 小室とエイベックスは、単にヒット曲を作ろうとしていたわけではなかった。彼らが企んでいたのは、現象を作り、それによって新しいカルチャーを日本に根付かせるということだった。

町田の小さなマンションの一室から始まった

 小室自身は、trfがデビューした時点ですでに大きな成功を手にしたミュージシャンであり、音楽プロデューサーだった。
 1984年に宇都宮隆、木根尚登と共に自身をリーダーとして結成したユニットTM NETWORKでエピック・ソニーからデビュー。同時に作曲家としても活動を開始し、渡辺美里に提供した「My Revolution」(1986年)がヒット。さらに1987年にはアニメ『シティーハンター』主題歌の「Get Wild」でブレイクを果たし、翌年には紅白歌合戦にも出演。90年に名義を「TMN」としてからも、グループの人気は続いていた。
 扉を叩いたのは、むしろエイベックスの側だった。つまり「EZ DO DANCE」の物語は、いわば松浦勝人の物語でもある。横浜の貸レコード店「友&愛」のアルバイト店員から一代で日本を代表するレコード会社を築き上げた創業者だ。ちなみに、彼が経営に携わった当時の「友&愛」上大岡店の常連客にはダンス&ボーカルユニットZOOのメンバーとしてデビューし、後にEXILEのリーダー、そしてLDHの創業者となったHIRO(五十嵐広行)もいた。
 つまり90年代のエイベックスから10年代のLDHに至る「ダンス・ミュージックのJ-POP化」という大きな潮流の源泉は、横浜・上大岡の小さな貸レコード店にあったとも言える。
 キーワードは「ディスコ」だった。
 町田の小さなマンションの一室でダンス・ミュージックの輸入レコード卸業として始まったエイベックスは、90年代に入り、ユーロビートのコンピCDの制作、そして80年代を席巻した人気ディスコ「マハラジャ」を疑似体験できるという宣伝文句のコンピCDシリーズ『MAHARAJA NIGHT』を売り出し、徐々に市場を拡大していく。
 そして1991年にはジュリアナ東京がオープン。後にバブルを象徴する表象となる「ワンレン・ボディコン姿で羽根つきの“ジュリ扇”を振って踊るお立ち台ギャル」のイメージと共に社会現象的なディスコブームを巻き起こす。エイベックスから発売されたそのコンピCD『JULIANA’S TOKYO』シリーズも10万枚を超えるセールスを実現した。
 その頃、松浦と小室を結びつけたのが、当時マハラジャを担当していた広告代理店クリエイティブマックスの千葉龍平だった。
 松浦が最初に持ちかけたのはTMNの楽曲をユーロビート・カバーしたCDの企画。小室は興味を持ったが、当然、TMNと小室が所属していたエピック・ソニーは簡単に首を振らない。千葉の粘り強い交渉のすえ、アルバムは1992年9月23日に『TMN SONG MEETS DISCO STYLE』として発売される。
 このアルバムの成功がtrfの構想につながった。

ダンサーの地位を変えた曲

 trfは、ダンサーが主体で、YU-KIのヴォーカルとDJ KOOのDJがいるという奇妙な組み合わせです。
 今では、それが普通になってしまってなんとも思わなくなっているけど、当時としてはものすごく異様なグループ構成でしたね。ヴォーカルがいて、バックダンサーがいるというのはあったにしても、ダンサーが主役だとか、なぜかDJまで一緒にステージにいるとか、当時ではあり得ない。見たことない。全部、小室さんの発想です。
(Newspicks イノベーターズ・ライフ「松浦勝人」[1])

 松浦はこう振り返る。
 ポイントはダンサーが主役であることだった。だからこそメンバーが重要だった。そこで小室が声をかけたのが、深夜番組『Dance! Dance! Dance!』(フジテレビ系)にて結成されたダンスグループMEGA-MIXのリーダー、SAMだった。
 当時SAMは28歳。15歳でダンスに出会い、ディスコでダンサーチームを結成。アイドルグループとしてのデビューとその挫折を経て、「ダンサーがストリートダンスを仕事にして生計を立てる」ために身を賭していた。バレエやジャズダンスの基礎を習得し、その後単身NYにダンス留学。その頃にはすでにダンス教室で指導する“大人”の側にいた。
 MEGA-MIXは「ダンサーとして有名になる」「歌手のバックでは踊らない」ということをチームの信念として強く持っていたストリートダンスのグループだった。踊っていた曲はヒップホップが中心で、trfがやろうとしていたテクノやユーロビートとはテンポからして違う。メンバーの中には違和感を持つものも多かった。しかしSAMは仕事として割り切ってそれを引き受ける。
 とにかくダンサーの地位を上げたい。背景にはそういう思いがあった。後にSAMはこう振り返っている。

 ダンサーといえば、バックダンサーのことだった時代。僕らがソロを踊っても照明を当ててくれなかった。小室さんにお願いして、ようやくピンスポットが来るようになりました。小室さんは『ダンサーのソロは、ギターのソロと同じ。ギター奏者にはピンを当てるでしょ』と言ってくれました。
 ダンサーの立場を、そういうところから変えてきました。
(産経ニュース【TRF25周年】SAMが語る「俺のダンス人生」)

 小室もその意志を共有していた。1995年、音楽番組『TK MUSIC CLAMP』でのSAMとのトークで小室はこう語っている。

 TRFをやろうと思った時から、そういったシーンを盛り上げたいという気持ちがあったね。(中略)ダンサーの人たちは僕の詞の世界に通じるところがあるんだよね。決してきまじめに生きてるとかじゃないけど、やりたいことに関してはメチャメチャ頑張るでしょ。もうなりふり構わず。だけど、なりふり構わないのにちゃんと格好よくて。自分のやることのためにはすごく気を遣ったりとか。そこらへんが今の自分の描きたい人に、すごく近いんだよね。
(『With t―小室哲哉音楽対論〈Vol.3〉』

 人気安定期に入っていたTMNを続けるのではなく、新たな音楽シーンを開拓しようとしていた小室。レーベル初の邦楽アーティストをブレイクさせるべく奔走していた松浦や千葉。ストリートダンスを広めダンサーを職業として成立させようとしていたSAM。trfの成功は、それぞれの挑戦が交わったところにあった。

「踊る君を見てる…」「君だけを見ている」

「EZ DO DANCE」のサビのフレーズからは、そんな思いの交差が伝わってくる。

誰もがダンスする時代へ

 どんな栄華も、どんな狂騒も、やがては終焉を迎える。ヒットチャートをあれだけ席巻した「小室ファミリー」も、00年代に入ると存在感を失っていく。
「宇多田ヒカルの登場が僕を終わらせた」
 拙著『ヒットの崩壊』でインタビューした際、小室は時代の変化をそう総括している。
 TRFも98年に小室プロデュースを離れてからCDセールスは徐々に低迷していた。00年代前半にはリリースも途絶え、グループとしての表立った活動は休止状態となる。
 しかしTRFは終わらなかった。
 それどころか、10年代に入り、再び表舞台で脚光を浴びるようになっていった。2012年には結成20周年を記念してエクササイズDVD『TRF イージー・ドゥ・ダンササイズ』をリリース。これがシリーズ累計350万枚を超える大ヒットとなる。DJ KOOは、その愛すべき独特なキャラクターもあって、テレビのバラエティ番組で引っ張りだこの存在になっていった。
 なぜTRFは解散しなかったのか。DJ KOOはこう語る。

 メンバー一人ひとりが各々のシーンで実績を積んで活躍をしていた、元々プロ意識の高い集団でした。自分の考え方に基づいて、自分のやり方で実現する術(すべ)を持っていた、ある種の“大人の集まり”だったんです。だから皆変に力まず、自然体で付き合うことができたんだと思います。
「【DJ KOO】月5万円、ガテン系、小室哲哉との出会い、そしてTRFへ―カンパネラ」[2]

『TRF イージー・ドゥ・ダンササイズ』がヒットした2012年は、中学校の学習指導要領が改定になり、体育の授業でダンスが必修となった年でもある。連載の後半で取り上げる楽曲の数々も「踊る」ということがヒットの鍵になっている。
 バブル絶頂期のディスコで踊ってたギャルたちも、ダンサーといえばバックダンサーだった時代の音楽業界を変えようと奮闘していたSAMやHIROも、おそらく1993年当時には「いずれ中学校の体育でヒップホップダンスを習う時代がやってくる」とは露程も思わなかっただろう。
 そうして時代は少しずつ変わっていく。

[1] https://newspicks.com/news/2942511/body/
[2] https://business.nikkeibp.co.jp/atclcmp/15/270963/012800004/?P=2

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柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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