平成ヒット曲史
2019/12/20

自己犠牲から自分探しへ 平成6年の「innocent world」(Mr.Children)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第6回は、Mr.Childrenの「innocent world」です。

自分自身にしか書けない言葉を


Mr.Children「innocent world」

 曲を作った瞬間に「これは100万枚売れる」と思った――。
 Mr.Childrenのブレイクのきっかけになった「CROSS ROAD」(1993年)について、桜井和寿はこう語っている[1]。
 この時代の「100万枚」というのは、すなわち「大衆に届く」というのと同じ意味の言葉だ。当時のインタビューで桜井は自身の音楽のターゲットを「中高生ではなく、映画館に大人料金で入る人たち」「OLやサラリーマンのような、平凡な人たち」と語っている。
 彼らは、当時としては珍しいほど、「売れる」ということに対して貪欲な意志を最初から持っていたロックバンドだった。大衆が共感する曲を誠意を持って作り、確固たる戦略を持ってそれを世に届ける。アルバム『EVERYTHING』(1992年)でデビューした22歳の時に、すでに桜井のヴィジョンは固まっていた。
 小林武史との出会いも大きかった。小室哲哉と並んで数々のヒット曲を送り出し、2人のイニシャルをとって「TK時代」という言葉も生まれた、90年代を代表する音楽プロデューサーの一人だ。
 3作目のアルバム『Versus』(1993年)までスマッシュヒットは出なかった。しかし勝算はあった。必要なのはタイアップ。CMの15秒で、ドラマ主題歌の数十秒でどれだけ勝負できるか。そこにドラマ『同窓会』(日本テレビ系、1993年10~12月)主題歌というチャンスが舞い込み、「CROSS ROAD」は狙い通りミリオンヒットを達成する。
 輝かしいサクセスストーリー。しかし、ミスチルにとっての大きな転機になったのは、その次に作ったこの曲だった。

 いつの日も この胸に流れてる メロディ
 切なくて 優しくて 心が痛いよ

 こう歌う「innocent world」(1994年6月1日発売)は、最初の段階ではもっとシンプルなラブソングだったという。タイアップが決まっていたアクエリアスのCMのイメージも盛り込んでいた。「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失ってた」「入り組んでる関係の中でいつも帳尻合わせるけど」などの歌詞は、その段階では存在しなかった。
 しかし小林から一つの提案があった。注目されている時期だからこそ、誰にでも歌えるラブソングではなく、自分自身の胸の内を明かそう。自分にしか歌えない言葉を書こう。そうして完成した曲は前作を超える社会現象的なヒットを巻き起こす。

切ないが、前に進むのだ

「innocent world」は、1994年のオリコン年間チャート1位。バンドはその後も「Tomorrow never knows」(1995年4位)、「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~」(1995年5位)、「名もなき詩」(1996年1位)など、オリコン年間シングルランキングのトップ10に入る大ヒット曲を連発する。ミスチルが国民的バンドになったのは、明らかにこの曲がきっかけだった。
 では「innocent world」は、時代の何を象徴する曲となったのか?

 100万枚売れて、結局手に入ったのは印税と他人の目だった。

 当時のインタビューで、桜井はブレイク後の実感をこう語っている[1]。達成感はあった。しかし、手に入ったのは、別になくてもかまわないものだった。「売れる」という目標、タイアップ先の要請に応える職業作家的なスタンス、ロックバンドとしてのあり方、アーティストとしての探究心、いろんなものに絡まってこんがらがりながら、なんとか辻褄を合わせようとしている自意識を、そのまま歌にした。
 1994年は、いよいよバブル景気の残り香も消滅し、のちに「失われた30年」と呼ばれる経済的な停滞が顕在化し始めた年だ。
 日本社会から浮かれたムードは消えつつあった。その代わりに前景化してきたのは迷いや葛藤。「自分探し」という言葉がメディアを賑わすようになっていったのもこの頃のことだ。
「innocent world」はそういう時代の心性を象徴する一曲になった。
 ミスチルの楽曲には、その後も「自分らしさ」をキーワードにした歌詞が頻出する。

 知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中で
 もがいてるなら 僕だってそうなんだ(「名もなき詩」)

 自分のアイデンティティに迷いや葛藤を抱えながらも、あきらめず、屈することなく、挑み続ける。ミスチルの楽曲は様々なテーマやモチーフを描いてきたが、どの曲にも、どこかそういう「自分探し」と「挑戦」のトーンが通底している。小林は筆者のインタビューでそれを「切ないが、前に進むのだ」という言葉で言い表わしていた。

「切ないが、前に進むのだ」というような表現が、日本のメジャーシーンにはずっと変わらずある。かつて「innocent world」を手がけたとき、僕のなかに「これだったんだ」という気持ちが芽生えて。その「切ないが、前に進むのだ」という感覚には、今もみんなどこかで惹かれているように思います。[2]

サッカーとミスチルの「国民的物語」

 平成という時代は、サッカーが国民的な関心事となった時代である。
 そして、Mr.Childrenは、その時代の流れに並走してきた。その理由としては桜井が自他ともに認めるサッカー好きであり、自身もチームを組んで日々プレイし、プロ選手たちとも交流が深いというのがもちろん大きいのだが、特筆すべきことはそれだけじゃない。
 ミスチルと日本のサッカーには歴史的なタイミング、そして価値観の深い結び付きがある。
『日本代表とMr.Children』(宇野維正/レジー)には、両者の歩みと精神性がどうリンクしてきたのかが、詳述されている。
 1993年、Jリーグが開幕。空前のブームを巻き起こす。『Jポップとは何か』(烏賀陽弘道)にも書かれているように、1989年、ラジオ局J-WAVEの会議室の中で生まれた「J-POP」という呼称が世に広まった直接のきっかけが、他にも「J文学」や「Jビーフ」などの言葉を生んだJリーグのブームだった。前述の通りミスチルがブレイクしたのもこの頃だ。
 ワールドカップに挑むサッカー日本代表の物語が始まったのもこの年だ。翌1994年に開催されるアメリカ大会でW杯初出場を目指していた日本代表は、予選最終試合のロスタイムの失点でそのチャンスを逃す。しかしその4年後の1997年、フランス大会予選最終試合では延長ゴールで出場決定。この2つの試合は深夜にもかかわらず平均視聴率48.1%、47.9%を記録。その劇的な幕切れはそれぞれ「ドーハの悲劇」「ジョホールバルの歓喜」として語り継がれた。
 その後も2002年の日韓共催大会でのロシア戦の66.1%という記録的な数字を筆頭に、W杯でのサッカー日本代表の試合は、その年の視聴率ランキング1位となる高視聴率を記録し続ける。
 哲学者のリオタールが『ポストモダンの条件』(1979年)において提唱したように、社会全体で共有される「大きな物語」が崩壊したのが、日本における平成という時代だ。
 しかし1993年から25年にわたって「世界という高い壁に挑み続けるサッカー日本代表」というストーリーは、三浦知良、中田英寿、本田圭佑、香川真司など、その時々のキープレイヤーは変遷しつつ「ナショナル・ナラティブ(国民共通の物語)」として共有され続けてきた。
 Mr.Childrenは、そのイメージに深くコミットしてきたバンドだ。
 最も象徴的なのは「終わりなき旅」のこの一節だろう。

 高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな

 この曲を愛するサッカー選手はとても多い。その代表が名波浩と長谷部誠だ。1998年のフランスW杯から日本代表の中心選手をつとめた名波は桜井とプライベートでも親交が深く、イタリア・セリエAに移籍した際に「I’LL BE」を捧げられるほど、ミスチルにとって「特別な選手」の一人だ。
 その名波が中心になったフランスW杯では、日本代表は初出場を果たすも0勝3敗と惨敗。「世界の壁」を意識せざるを得ない結果だった。そして同年10月、活動休止状態にあったミスチルは活動再開を告げるシングルとして、この「終わりなき旅」をリリースする。
 また、2008年から日本代表に定着し、キャプテンとして長くチームを牽引した長谷部誠は、自著『心を整える。』でこの「終わりなき旅」を好きな Mr.Childrenの曲ベスト1に挙げている。
 桜井自身も、この曲とサッカー日本代表との結びつきについて言及している。2004年に刊行された『別冊カドカワ総力特集 Mr.Children』では「最も会って話してみたい相手」として日本サッカー協会会長(当時)の川淵三郎を指名。当時進めていた「ap bank」を例に、自分の活動を持続可能な社会にどう還元していくかという発想において、Jリーグがとても参考になったと語っている。その会話の中で、やはり「高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな」という歌詞の一節が日本代表のロッカールームに掲げられていたということを嬉しそうに告げている。

根性から自分らしさへ

 こうしてMr.Childrenとスポーツの関係性を考えていくと、彼らが昭和から平成にかけてどんな価値観をアップデートしたのかが、見えてくる。
 昭和の時代には「スポ根」という言葉があった。スポーツが象徴するような勝負の世界では、勝利のために「根性」が必要だというのが昭和の時代の価値観だった。でもその考え方は80年代を通じて徐々に古びて、スポ根の時代はいつの間にか終わっていく。
 そのかわり、平成の時代になって勝利のために必要になったのは「自分らしさ」だった。
 2014年、ブラジルW杯で2敗1分けに終わった長谷部誠ら日本代表の選手たちは「自分たちのサッカーができなかった」と口にした。
 世界の強豪国と戦うためには、日本の選手たちの強みを活かしたスタイルを確立する必要がある。そういう意識がその背景にあった。
「自分たちのサッカー」という言葉自体は目の肥えたサッカーファンを中心に賛否両論の議論を呼んだが、そもそも、そういうテーゼ自体が「アイデンティティに迷いや葛藤を抱えながらも、あきらめず、屈することなく、挑み続ける」というミスチルの楽曲のモチーフと共振するものだ。
 サッカーに限らずスポーツ選手の多くのインタビューでは「自分らしいプレイができた」という言葉は勝ったときの決まり文句になった。自分らしさを見失うと負け、自分らしさを獲得すると勝ちという「自分探しの価値観」が根付いたのが平成の時代だった。
 ちなみに、「innocent world」が平成ならば、昭和の「スポ根」を象徴する曲は美空ひばり「柔」だろう。初めて柔道が正式競技に採用された1964年の東京五輪にあわせて作られ、その年の紅白歌合戦でも歌われたこの曲は、180万枚を超え、ひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となっている。

 行くも住るも 坐るも臥すも 柔一すじ 柔一すじ 夜が明ける

 こう歌われる「柔」で描かれるのは、他の全てをなげうち、暴力を含む理不尽な仕打ちにも耐えて勝利を夢見る主人公の姿だ。
 つまり、こうした昭和の根性論を醸成してきたのが美空ひばり「柔」だとするならば、それを「自分らしさ」の価値観でアップデートしてきたのがMr.Childrenと平成の日本のサッカー文化だったのである。

[1]『ロッキング・オンJAPAN』1995年2月号
[2]https://www.cinra.net/interview/201804-kobayashitakeshi

***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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