平成ヒット曲史
2020/02/21

平成時代の「カッコいい大人の男」のロールモデル 平成8年の「イージュー★ライダー」(奥田民生)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第8回は、奥田民生の「イージュー★ライダー」です。

カウンターとしての「脱力」


「イージュー★ライダー」

 1996年、奥田民生は、プロデューサーとして予想を上回る成功を手にしていた。
 彼が手掛けた大貫亜美・吉村由美によるユニット、PUFFYは、この年5月にデビューシングル『アジアの純真』をリリース。奥田が作曲とプロデュースを、井上陽水が作詞を担当したこの曲は、そのナンセンスな歌詞とゆるく脱力感に満ちた2人のキャラクターが脚光を浴び、ミリオンヒットを実現する。
 当時を振り返ったインタビューで彼はプロデュースのきっかけをこう語っている。

 やっぱり小室(哲哉)さんとか小林武史さんの活躍が始まった頃だったから、ああいうことが自分にもできるのかどうかという感じですよね。「ああいうこと」って言っても、まあ違うっちゃ違うけど、やり方は別としても、その同じ土俵に出れるかどうかっていう――そういう衝動が出てきたっつうか。(『俺は知ってるぜ』ロッキング・オン)

 90年代のJ-POPは「プロデューサーの時代」だった。
 その代表である小室哲哉の絶頂期は、1995年から1996年にかけて訪れている。安室奈美恵を筆頭に、華原朋美、hitomi、篠原涼子など彼が手掛けた女性シンガーの躍進が相次ぎ、さらに95年8月には小室自身がメンバーに参加したglobeのデビューアルバムがリリースされ当時の日本記録となる400万枚以上のセールスを達成。1996年の流行語大賞には安室奈美恵のメイクやファッションを真似した「アムラー」がランクインした。
 小林武史も1995年から1996年にかけて様々なプロジェクトで一世を風靡している。Mr.Childrenを筆頭に、自身もメンバーとして参加したMy Little Loverが『Hello, Again ~昔からある場所~』でブレイク。1996年には岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』の音楽を手掛け、出演したCHARAがヴォーカルをつとめる架空のバンドYEN TOWN BANDをプロデュースし、『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』をヒットさせている。
 2人のイニシャルから「TK時代」という言葉がメディアを賑わしていた1996年には、安室奈美恵と同じく沖縄アクターズスクール出身のダンス&ヴォーカルグループ、SPEEDが「Body&Soul」でデビューしている。
 Tシャツとジーンズ姿で気だるそうに身体を揺らしながら世に登場したPUFFYは、明らかにこうした流行へのカウンターとして存在していた。
 デビュー時から彼女たちのダンスの振り付けを手掛ける振付演出家の南流石は、2016年、デビュー20周年を迎えたタイミングの取材でこう語っている。

「アジアの純真」は、曲にしても、2人の個性にしても、衝撃でした。あの時代に注目されてたものと全く違うものを生もうとしているっていう衝撃と、そこに参加できるワクワクはすごかったですね。
 ものすごく流行ってるものの反対側に、必ずそうじゃないものがある。流行っている方にいくとそのうち必ず古いものになっちゃうから、私は少数派へ、正反対の方に行く。
 当時流行ってたダンスってカッコイイとは思うけど、マネはできないでしょ? でも、PUFFYのは「こんな簡単なの? じゃあうちらもできるじゃん」みたいな。(「『PUFFYは覚悟を決めている』 振り付け南流石さんが認めた強さ」withnews)

「♪ 北京 ベルリン ダブリン リベリア 束になって 輪になって」という歌詞も、書いた井上陽水にはそのつもりは一切なかっただろうが、結果的に時代へのカウンターになった。
 この時期に小室哲哉が書いたヒット曲の数々の歌詞の特徴は、固有名詞を使わず具体性を伴わない描写、そして頻出する感傷的な言葉にある。「こんなに夜が 長いものとは想ってもみない程 寂しい」(安室奈美恵「Body Feels EXIT」)。「街中で居る場所なんてどこにもない」(華原朋美「I’m Proud」)。「凍える夜 待ち合わせも出来ないまま 明日を探してる」(globe「DEPARTURES」)。彼自身、自らの作詞術について「僕は1人の女性の全く見えない孤独を歌詞にしてきたつもりです」と語っている[1]。
 PUFFYはその後「Puffy AmiYumi」として全米デビューを果たし、その後も第一線で活躍を続けることとなる。デビュー20周年を迎えた2016年のインタビューでも「私たち、20年間、脱力したことなんて一回もないので」(大貫亜美)、「自然体って言われても、人様の前に出ているときに自然体だったことは、一回もないです」(吉村由美)と語っているが[2]、それだけ、当時のイメージが強烈だったということだろう。
 底の見えない不況に向かっていた90年代後半の日本では、ある種の不安な心性、強迫的なムードが社会を覆っていた。
 だからこそPUFFYが体現していた「ユルい」姿はとても鮮烈だった。そして、それは奥田民生のイメージにも重なっていた。

30代の“自由”と“青春”

 奥田民生は、『アジアの純真』でPUFFYがデビューした1ヶ月後、6月21日にシングル『イージュー★ライダー』をリリースしている。
 当時のチャートアクションはオリコン初登場4位。センセーションを巻き起こしたPUFFYに比べると派手な結果を残したわけではない。
 しかしこの曲は、その後もバラエティ番組『東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい…』など数々のテレビ番組やCMに起用され、長く愛され続け、奥田民生の代表曲として存在感を増していくこととなる。

 僕らの自由を 僕らの青春を
 大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう

 その理由は、やはり曲の持つ力にあったと言えるだろう。雄大で、地に足の着いたギターサウンド。力強いメロディ。情熱的でありつつ達観した歌詞の言葉。奥田民生のアーティスト性の真髄が表れた曲だ。
 この曲を書いた当時、奥田民生は30歳。曲名の「イージュー」というのは業界用語で「30」のことだ。
 30歳になった奥田民生は、なぜ「大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう」と、もってまわった言い回しをしながら「僕らの自由」と「僕らの青春」を歌ったのだろうか。

 ユニコーンでやってる頃は時間的にもあまり余裕がなくて、ドライブもできず、みたいな状況だったわけですが、バンドが解散して、釣りをするようになったり、車で一人で走ったりする時間もできてきて、こういう暮らしもいいなと。昔は時間がなくてできなかった趣味の部分ができ始めてる頃の曲ってことかなぁ。(奥田民生『ラーメン カレー ミュージック』KADOKAWA)

 この曲が作られた背景を彼はこう語っている。ただ、彼は時間の余裕と趣味のことを言っているが、きっとそれだけではないだろう。
「イージュー★ライダー」とは、つまりは“30代で取り戻した人生”をモチーフにした歌だと筆者は捉えている。
 その背景にあるものには、彼が直面してきたバンドブームとその後の音楽シーンの変化も大きい。

バンドブームの狂騒と、その後に訪れた充実

 1987年、奥田民生はユニコーンのヴォーカリストとしてメジャーデビューを果たしている。
 当時22歳。彼らがブレイクしていく時期はまさに80年代後半のバンドブームの絶頂期だった。
 そして、大槻ケンヂが当事者の一人として『リンダリンダラバーソール いかす!バンドブーム天国』に書き記しているように、そのブームは、言ってしまえば「大人たちが才能ある若者の個性を右から左へと面白がり、次々と消費していく」あっという間のムーブメントだった。
 ブームの象徴となった『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)は1989年の放送開始からわずか2年足らずで放送を終了している。当時、ロックバンドが売れるには個性が必要だと考えられていた。そしてその個性とは、つまるところ「なんでもいいからとにかく目立つこと」だった。
 こうしたバンドブーム時代の価値観について、桜井和寿による興味深い述懐を筆者は耳にしている。2018年、エレファントカシマシ、スピッツとMr.Childrenが共演したさいたまスーパーアリーナのライブのMCでの発言だ。
 いわく、まだミスチルが前身バンドだった1988年にユニコーンやエレファントカシマシを輩出したCBSソニー・オーディションを受けたことがあったのだという。最終選考の日本青年館まで行った。しかし結果は落選。納得が行かずソニーの担当者に電話をした時に言われたのが「個性が足りない」という一言だった、という。
 そういう時代だったのである。
「当時はどうやって目立つかをいつも考えていましたね」と、ユニコーンに後から加入したABEDONは筆者の取材に答えて語っている[3]。ただ、その中で、派手な見た目でもキャラクター性でもなく、あくまで音楽で勝負しようとしていたのがユニコーンだった。
『服部』(1989年)や『ケダモノの嵐』(1990年)などセールス面でも成功をおさめ音楽的な評価も得た彼らは、しかし、1993年にアルバム『SPRINGMAN』を残し解散してしまう。
 しかし、奥田民生が初のソロアルバム『29』とそれに続く『30』をリリースした1995 年頃から、徐々に日本のロックバンドを巡る状況は変わりはじめていた。メジャーデビュー以降実力は認められつつも売り上げ低迷に苦しんでいたバンドたちが続けざまにブレイクを果たしていく。スピッツが「ロビンソン」で、ウルフルズが「ガッツだぜ!!」で、ザ・イエロー・モンキーが「JAM」で成功を掴む。“ブーム”ではなく“充実”と言えるムードが漂い始める。
 そういう1995年に30代となったのが奥田民生だった。彼はその感慨をこう語っている。

 僕は早く30になりたかったから。なりたかったっつうか、期待してたので、30代にね。でもまあ、それはやっぱりバンドが解散して、ソロになるっていう状況が、その時は大きかったので。(中略)まあ、先行きが不安だけども、すごい楽しそうな感じがしてたんで……よかったよ(笑)。(『俺は知ってるぜ』)

 こうした時代背景の中、奥田民生はバンド解散からソロでの成功を手にし、「自らの人生のハンドルを自分で握る」30代に突入した。「イージュー★ライダー」はそんな状況で書かれた一曲だった。そして、そこにこめられた「先行きが不安だけども、すごい楽しそうな感じ」の実感は、1996年の日本の社会に、やはり鮮烈に響いていた。

「奥田民生になりたいボーイ」は何に憧れたのか

 この頃から、奥田民生には「マイペース」「ユルくて自然体」「飄々とした」といったパブリックイメージがつきまとうことになる。
 そのイメージを絶妙なモチーフにして描かれた漫画が、渋谷直角『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』(2015年、扶桑社)だ。
 大根仁監督により映画化もされた同作では、冒頭に、サブカル少年である主人公のコーロキが奥田民生に憧れるきっかけになったエピソードが描かれている。
「着飾ったミュージシャンの中でひとりだけラーメンの汁をつけて登場した民生の、その『なんでもいい』ような在り方にシビれたのだ!!」と、中学生時代に観た『Mステ』の場面を回想しつつコーロキは目を輝かせて解説する。同書の帯にはこんな言葉も書かれている。

「いつになったら、奥田民生みたいに『力まないカッコいい大人』になれるのか?」

 奥田民生自身は、「『呑気だ』って言われるじゃない? それは嫌なんですよ。もともと呑気じゃないんだもん」(『俺は知ってるぜ』)、「マイペースとか言われるけど、そんなペースないですから」(『ボクらの時代』2017年9月17日放送)などと、そういったパブリックイメージに釘を刺すような発言を繰り返している。
 それでも、奥田民生は、平成という時代の「力まないカッコいい大人」のロールモデルの一人であった。
 そして、「イージュー★ライダー」はその象徴となる曲だった。

[1] 「小室哲哉、globe20周年の“真実” 過去の葛藤と『FACES PLACES』の意味を初告白」(モデルプレスインタビュー:https://mdpr.jp/interview/detail/1509015
[2] 「『ゆるく生きても、いいことねえぞ』 PUFFY、脱力知らずの20年」(withnews)
[3] 「『上手いやつが一番偉い』『26歳でフェラーリ』80年代末期の音楽業界|平成30年間のJ-POP|ABEDON/斎藤有太」(cakes:https://cakes.mu/posts/22554

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柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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