平成ヒット曲史
2020/04/17

初のインターネット・アンセム 平成10年の「ピンク スパイダー」(hide)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第10回は、hideの「ピンク スパイダー」です。

ターニングポイントの1年


「ピンク スパイダー」

 1998年は、平成の日本のポップ・ミュージック史における「特別な1年」だ。
 その理由は大きく二つある。一つは、この年が「史上最もCDが売れた年」であるということ。1998 年の音楽ソフトの生産金額は6074億円。1989年の3833億から約10年で1.5倍に膨れ上がった。
 CDバブルの絶頂期。その売上を押し上げたのは数々のベスト盤だった。火をつけたのは前年の1997年10月に発売されたGLAYのベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』。これが当時の歴代1位だったglobeのデビューアルバム『globe』(1996年)を上回り400万枚を超える大ヒットとなる。さらにこの年にはB’zの2枚のベスト盤『B’z The Best “Pleasure”』『B’z The Best “Treasure”』が発売され、これがその記録をさらに塗り替える500万枚のセールスを実現。また、松任谷由実『Neue Muzik』、サザンオールスターズ『海のYeah!!』と、大物アーティストのオールタイム・ベストも200万枚(累計300万枚)を超えるセールスとなる。ベスト盤ブームは音楽業界に空前の活況をもたらしていた。
 ただ、1998年を平成の日本の音楽史における「特別な1年」と位置づけるのは、単にCDが売れていたからだけではない。二つ目の理由は、この年が価値観の転換期だった、ということ。金融機関の破綻が続き就職氷河期が本格化し日本が不況の底に沈んでいた1997年から1999年にかけて、日本の音楽文化は大きなターニングポイントを迎えようとしていた。
 その象徴の一つが、1998年に、その後の日本の音楽シーンを支えるアーティストたちが次々とデビューを果たしている、ということだ。
 特にこの年は女性アーティストの「当たり年」だった。この年、MISIA、浜崎あゆみ、椎名林檎、aiko、宇多田ヒカルがメジャーデビューを果たしている。そのことが持つ意味については次回に述べたい。
 また、1997年から1999年は、オルタナティヴな感性と価値観を持ったロックバンドが次々とデビューを果たした期間でもあった。後続世代に大きな影響を与えたその代表が、くるり、ナンバーガール、スーパーカー。ドラゴンアッシュ、トライセラトップス、グレイプバインといった、その後20年以上第一線で活躍するバンドのデビューも1997年だ。
 日本のフェス文化の黎明期もこの時期だ。フジロック・フェスティバルの初開催は1997年。台風により、2日目の開催中止を余儀なくされた初年度を経て、1998年には東京・豊洲で第2回が開催される。そこではベックやビョークなど海外のトップアーティストと、忌野清志郎や布袋寅泰やミッシェル・ガン・エレファントやブランキー・ジェット・シティがステージを共にした。ハイ・スタンダードが主催フェス「AIR JAM」を初開催しパンク・ロックやラウド・ミュージックの新たな潮流が生まれたのも1997年だ。
 これらの環境の変化によって、それまで日本の音楽ファンやメディアの趣向の中に“目に見えない壁”としてあった洋楽と邦楽の分断が溶け始め、海外と日本のアーティストの両方をフラットに愛好するリスナーが増えたのも、この頃だった。
 一方で、1998年は、ロックバンドが本格的にJ-POPのメインストリームを制した年でもある。この年のオリコン年間シングルランキングの1位はGLAY「誘惑」。L’Arc~en~Cielは「HONEY」「花葬」「浸食 ~lose control~」と同時発売したシングル3枚をいずれも大ヒットさせ、LUNA SEAは河村隆一のソロ作のヒットを経てバンド活動を再開。この年の紅白歌合戦にはGLAYが2度目の出場、L’Arc~en~CielとLUNA SEAが初出場を果たしている。
 こうした数々のエポックメイキングな出来事のあった1998年。hideというアーティストは、こうした音楽シーンの様々な動きの“ハブ”のような位置にいた。GLAYを見出しスターダムに押し上げる一役を担うと同時に、国境を超えたロックの同時代性を体現しようとしていた。
 洋楽と邦楽。ロックとJ-POP。メインストリームとオルタナティヴ。ポップスとハードコア。ヴィジュアル系の絶頂期とフェス文化の黎明期。hideは様々なカルチャーにリンクし、様々な壁を壊す稀有な存在だった。
 hide with Spread Beaver名義で5月13日にリリースされた「ピンク スパイダー」は、この年のオリコン年間ランキング11位。もちろん、もっと売れた曲はある。しかし、そういう意味では、時代のターニングポイントだった1998年を最も象徴するのは、この曲だったと言えるのではないだろうか。

最後の121日間

 hideの1998年は1月1日、新聞の全面広告から始まった。
 そこに記されていたのは、自らのバンド「hide with Spread Beaver」始動と、シングル「ROCKET DIVE」の発売告知。
 前日の1997年12月31日にはX JAPANの解散コンサート「THE LAST LIVE〜最後の夜」が東京ドームで開催されたばかりである。それは単なるリリースの告知だけでなく、X JAPAN解散の余韻を鮮やかに振り払い、いち早くネクストステージに飛び立つという高らかな宣言でもあった。
 1月28日に「ROCKET DIVE」がリリースされた後、hideはLAに渡りアルバムのレコーディングに取り掛かる。そのリードシングルとして完成したのが「ピンク スパイダー」と「ever free」の2曲だった。
 そして、この時すでにhideはもう一つのバンドのデビューアルバムのレコーディングを終えていた。元キリング・ジョークのポール・レイヴン、元プロフェッショナルズのレイ・マクヴェイと結成した3人組zilchだ。アルバム『3・2・1』は全編ほぼ英語詞で、サウンドは当時の英米のロックシーンの趨勢を意識したインダストリアル・ロック。リリース後の1999年には当時アメリカでシーンを席巻していたマリリン・マンソンとの対バンライブも予定されていた。
 自身のメインプロジェクトのhide with Spread Beaverと海外志向のzilchを共に始動させ、ヘヴィなギターリフとデジタルなサウンドが軸となる両者の音楽性を交錯させることで、洋楽と邦楽の垣根を壊そうとしていたのが、hideの1998年の戦略だった。
 hideの全ての楽曲に共同プロデューサーとして携わったI.N.Aは、著書『君のいない世界~hideと過ごした2486日間の軌跡~』の中で、zilchのアルバム完成後にhideが「このアルバムでグラミー賞獲ろう」と告げたことを明かしている。
 シングルのリリースが5月に決まり、hideは4月末にプロモーションのために日本に戻って雑誌取材や撮影や収録をこなす。そこでは、この先のプラン、そして「ピンク スパイダー」という曲をヒットさせることで日本の音楽シーンを変えようと企むギラギラとした意志が語られていた。

「発売日がもう徹底的にズレました。秋口になりますね。で、ツアーがあるんで――前後半と、7月から2ヶ月と、9月から12月までと考えてたんですけど、ちょうどいいやっつーことになって」
「5月にシングル2枚出て、7月にZilchのアルバムが出るんです」(『音楽と人』1998年7月号)
「『ピンク スパイダー』はああいう曲だから、特に手をかけてやろうって思うよ。『ピンク スパイダー』をちゃんと売らないと僕自身がなくなっちゃうっちゅうか、『ああ、やっぱり俺が思ってる音世界というのは相まみえないんだ』っていう結果に終わるかもしんないしね」(『ロッキング・オン・ジャパン』1998年6月号)

 そして5月2日。テレビ番組やラジオ用のコメントを収録し、打ち上げを経て早朝に帰宅した後、hideは急逝する。ドアノブにタオルを巻き付け、床に座り首を吊った状態で彼は発見された。
 死後、I.N.Aを中心に残されたメンバーが作品制作を続け、hide with Spread Beaverのアルバム『JA,ZOO』は11月にリリースされる。
 元日からの最後の121日間、hideは一心不乱に音楽制作に打ち込み、精力的にプロモーションに取り組んでいた。
 彼がなぜ死を選んだか。その答えは謎のままだ。しかし間違いなく言えるのは、彼が最後まで未来だけを見ていた、ということだ。

インターネットがもたらす未来を予言する

「ピンク スパイダー」が1998年を象徴する曲であることには、もう一つの理由がある。
 それは、この曲が日本のポップ・ミュージック史上初の「インターネットをテーマにしたヒット曲」であるということだ。
 hide自身がそのことを明言している。

「ほら、WEBって蜘蛛の巣じゃん? 最近僕がエネルギーを使ってることっていったら音楽とWEBだったりするから。そこから“今、何がポップなんだろう?”と思ったらスパイダーだったの」(『UV』1998年5月号)

 1998年はウィンドウズ98が発売され、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンがグーグルを設立した年。インターネットはまだまだ黎明期だった。
 ちなみに、日本だけでなく欧米各国においても1997年~1999年にかけて「史上最もCDが売れた年」が訪れている。そして、同様の傾向を示しているのは音楽市場だけではない。日本の出版市場は1996年の2兆6563億円を、新聞の発行部数は1997年の5377万部をピークに、その後、20年以上の長期低落傾向を続けている。
 すなわち、音楽も出版も新聞も含め、世界的にあらゆる20世紀型のメディア産業は90年代後半に一つのピークポイントを迎えていたことになる。
 しかし、そのことをリアルタイムで実感している人は少なかった。ネット接続環境は普及しつつあったが、それが文化と産業のあり方を塗り替え世界に人類史レベルの大きな変革をもたらすテクノロジーであることに気付いている人は多くはなかった。
 さらに言えば、音楽業界は好景気の真っ只中である。次の時代の到来にワクワクしている人、その興奮や警鐘をポップソングの形にしようとしているミュージシャンはほとんどいなかった。
 hideは、その数少ない一人だった。

君は 嘘の糸張りめぐらし
小さな世界 全てだと思ってた
近づくものは なんでも傷つけて
君は 空が四角いと思ってた
“これが全て どうせこんなもんだろう?”
君は言った それも嘘さ

「ピンク スパイダー」の歌詞は、きっと1998年よりも、ソーシャルメディアが普及しフェイクニュースとヘイトスピーチが猛威を振るう現在のほうが、リアルな共感をもって受け止められることだろう。
 hideは、言うなれば「予言者」だった。
 ある時、レコード会社のお偉方に「年をとったらどうするのか、いつまで化粧をしてやっていくのか」と訊かれたとき、彼はこう答えたという。
「そのうちにCGで完璧なヴィジュアルのアーティストを作って、俺はいつの間にかフェードアウトしてて、でもhideっていう名前でやってるの。やってる音楽は俺が作ってるんだけど、いつの間にかすり替わってるんだ」(大島暁美『Never ending dream -hide story-』より)
 その言葉も、後に現実化する。
 2008年、東京ドームで行われたX JAPANの再結成ライブ「攻擊再開 2008 I.V. ~破滅に向かって」では、hideはホログラムで登場。2014年には残されたデモを元にI.N.Aが中心になりボーカロイド技術を駆使して作られた新曲「子 ギャル」がリリースされる。2015年には横浜にオープンした3DCGホログラフィック専用劇場「DMM VR THEATER」のこけら落とし公演としてCGで再現されたhideが歌う「ピンク スパイダー」のライヴも実現した。
 2018年、X JAPANはアメリカ最大のフェス、コーチェラ・フェスティバルに出演する。そこでもhideは3DCGホログラムで登場した。
 彼の本名である「松本秀人」が死んだ後も「hide」は生き続けた。
 それもやはり、彼が最後まで未来を見続けていたからだった。
 生前最後のインタビューで、hideは「ピンク スパイダー」には続編があると言っていた。その曲がアルバム『JA,ZOO』に収録された「PINK CLOUD ASSEMBLY」。おそらく「ASSEMBLY」はプログラム言語のアセンブリと、「集会」や「会合」を意味する英語本来の意味のダブルミーニングだろう。そして「CLOUD」は「蜘蛛」と「雲」の同音異義語から生まれたモチーフだ。
 この曲に秘められた予言についても、1998年ではなく、クラウド・コンピューティングが当たり前になった現在のほうが実感をもって受け止められるのではないかと思っている。
hideは誰よりも先にインターネットの弊害に警鐘を鳴らし、誰よりも先にインターネット・アンセムを歌い上げたミュージシャンだった。
 歌詞だけが残されていたため、弟でありマネージャーだった松本裕士氏による朗読が収録された「PINK CLOUD ASSEMBLY」。そこにはこんな言葉が綴られている。

優しく雨は 君をつつみあげ
やがて 空へ昇り
雪色の雲 桜色に染め
君は 流されゆく
終わり無き 空の下で
自由という カゴの中で

 ***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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