平成ヒット曲史
2020/05/15

台風の目としての孤独 平成11年の「First Love」(宇多田ヒカル)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第11回は、宇多田ヒカルの「First Love」です。

800万人と1人


「First Love」

 大晦日の夜は“First Love”というバラードの歌入れをしてた。パーティー中の友達から「ひかるなにしてんの? 早くおいでよ!」的な電話がたくさんかかってきた。なんだかすごく遠い世界に感じた。結局、スタジオで新年を迎えた。1999年だー。わーい。(宇多田ヒカル『点 -ten-』)

 それは嵐の前の静けさだった。
 1998(平成10)年12月9日、宇多田ヒカルはメジャーデビューを果たす。当時、15歳。デビューシングル『Automatic/time will tell』は、オリコンチャートでは初登場12位(12cm盤)。「デビュー曲がいきなり大ヒット」と語られることが多い宇多田ヒカルのヒストリーだが、実は、この時点でいきなり火がついたわけではない。
 年末から年明けにかけて「Automatic」は徐々に世に広まっていった。まずはFMラジオ局でのヘビーローテーションがきっかけになった。普及しつつあったCS放送の音楽専門チャンネル、そして深夜テレビのスポットCMで、「Automatic」の中腰で踊るミュージックビデオの映像が流れ始めた。
 そんな中、宇多田は毎日学校に通い、通学途中の吉祥寺や遊びにいく渋谷の街で自分の曲が流れているのを聞いて友達と素直に喜んだりするような、そんな普段どおりの日常を過ごしていた。

「学校の友達には歌手やラッパーを目指す子が多く、みんな盛り上がってくれた。デビューしたという実感は全くなかった。まだ電車で通学してた」(同)

 しかし、1999(平成11)年を迎えると、彼女を取り巻く状況は急速に変わり始めた。多数の取材、テレビやラジオへの出演依頼が押し寄せた。2月にリリースされたセカンドシングル『Movin’ on without you』の評判がそれをさらに加速させる。そして3月10日。デビューアルバム『First Love』が発売された。
 このタイミングで世の中がひっくり返った。空前の大ヒットと共に、宇多田ヒカルの名前は「事件」になった。アルバムの初動売上は異例の200万枚超。ニュース番組や新聞が現象を取り上げ、ワイドショーや週刊誌がその姿を追い回した。15歳であること(デビュー当時)。帰国子女であること。藤圭子の娘であること。様々な情報が報じられ、一躍宇多田は時の人となる。
 それは90年代から00年代への、主役交代の象徴だった。
 拙著『ヒットの崩壊』で行ったインタビューにて、小室哲哉は「宇多田ヒカルが僕を終わらせた」と、当時を振り返っている。

「僕はヒカルちゃんが出てきた時に『時代が変わるんだろうな』って思いました。『Automatic』の時点で『やばいな、これ。次の来たな』って感じて。アルバムも案の定ものすごい枚数が売れた。でも、それと同時に『これ以上はCDの枚数は稼げないだろうな』という直感もあった。限界値、一つのピークに行き着いた感じがあったんです」(『ヒットの崩壊』)

 1999年の夏、アルバムの出荷枚数は800万枚を突破した。前年にGLAYやB’zがベスト盤で打ち立てた数字をはるかに上回る、当時にして史上最高のセールス記録だ。そして、おそらく、この数字は今後も破られることはないだろう。
 小室の言うとおり、宇多田ヒカルが成し遂げたCDセールスの数字は、拡大する音楽産業が一つのピークに行き着いたことの象徴でもあった。
 しかし、この前人未到の数字に対して、宇多田は、とてもクールでフラットなスタンスをとっている。彼女は後のインタビューでこんな風に語っている。

「800万人の人を感動させるのも、1人の大事な人を感動させるのも、癒すのも、ある意味、同じ実りなんじゃないかなあ」(『ロッキング・オン・ジャパン』2001年5月号)

孤独と祈り

 1999年は喧騒の一年だった。ノストラダムスが「空から恐怖の大王が降ってくる」と予言した年だ。今では冗談のような話だが、子供から大人まで、半ば本気で世界の滅亡を信じている日本人も少なくなかった。ミレニアムの終わりを前に、終末論と、浮足立ったムードが、世の中を包んでいた。
 そんな中で、大きなセンセーションを巻き起こしていたのが宇多田ヒカルだった。メディアが、大衆が、様々に彼女のことを語った。
 そうした喧騒の中で、本人の内面は湖の水面のように静かに澄み渡っていた。音楽/映画ジャーナリストの宇野維正は、著書『1998年の宇多田ヒカル』の中で、宇多田を「密室的なアーティスト」と論じ、そのアイデンティティは音楽の制作環境であるレコーディングスタジオで形成されたと指摘している。
 彼女自身、自らの原風景をこう語っている。

親はいつも私をスタジオに連れて行った。小学一年生の頃からスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝た。今でもスタジオはどこよりも落ち着く場所。いつ、どこの国でも同じような内装と照明と乾いた空気。静かな湖みたい。スタジオは平和。(宇多田ヒカル『点 -ten-』)

 宇多田は、いわば、嵐のような環境の中で育ってきた少女だった。
 音楽プロデューサーの父と歌手である母は、何度も離婚と結婚を繰り返す特異な関係だった。前触れなしの転居も何度もあった。何が起こるかわからない家庭だった。
 だからこそ「静かな湖みたいな場所」を求めていた。
 宇多田は、2018年6月に放映された番組『SONGS』(NHK)内での又吉直樹との対談において、幼少期の経験が自らの作風に与えた影響を語っている。予測不能な日常の中で「安心したら傷つく」「何も信じないようにしよう」と考えるようになった。それでも消しきれない思いが、自らが綴る言葉に通底する「祈り」や「願い」や「希望」のような要素につながっていると語っていた。
 また、同対談において宇多田は「12、3歳くらいまでは小説家になりたかった」と、子供の頃の夢を明かしている。「本の世界にいたかった。本の世界があって、そこで生きてたみたいな感じ」と、当時の毎日を語っている。

「太宰治さんの、『人間失格』だっけ? 小学校の時に読んで、ずっと道化道化って自分の事言ってて、みんなそうなんだあ!って思ったのね」(『ロッキング・オン・ジャパン』2001年5月号)

 転居を繰り返し、どんな国、どんな場所にいても、どこにも属していないような孤独を抱えていた。そんな毎日の中、本を読むことで、作者と心の中でつながった気がしていた。そして、沢山の人が同じ本から似たようなものを受け取っているということに思いを馳せ、そこに救いを感じていた。そうした幼い頃の体験が、彼女のもう一つの原風景になっている。

最後のキスはタバコのFlavorがした
ニガくて切ない香り

 この「First Love」の冒頭の2行が象徴するように、当時、宇多田の歌詞は「とても15歳が書いたとは思えない」と言われてきた。しかし、文学に居場所を見つけていた彼女の来歴を考えると、改めてその作家性に納得がいく人は多いのではないだろうか。

「First Love」と「初恋」

 2018年、35歳になった宇多田は7作目となるアルバム『初恋』を発表した。
 その間には、「人間活動に専念する」としてアーティスト活動を休止した2010年からの数年間もあった。母・藤圭子の死もあった。2016年に発表された復帰作『Fantôme』は、亡き母への思いと、喪失を乗り越える過程が刻み込まれた一作だった。

もしあなたに出会わずにいたら
私はただ生きていたかもしれない
生まれてきた意味も知らずに

 デビュー20周年という節目の年に発表されたアルバムの表題曲「初恋」では、こんな言葉が歌われる。
 このタイトルについて、前述の番組の中で宇多田は「『First Love』というヒット曲が過去にあったから『初恋』という曲にしようと思ったわけではない」と表面的な関連性を否定している。むしろ先に曲があって、そこから出てきたキーワードが「初恋」だった。その言葉は初めて人間として深く関係を持った相手を象徴するものだ。そして、宇多田にとってその相手は母親と父親だったと言う。
 宇多田ヒカルの歌は、徹底して「個」の表現であり続けてきた。
 だからこそ、彼女は特定の世代のカリスマにはならなかった。多数の「アムラー」を生み出した安室奈美恵や「女子高生のカリスマ」として同年にデビューした浜崎あゆみのように、女性たちの憧れの対象としてのアイコンにはならなかった。
 どれだけ沢山のCDが売れようと、聴き手は「一対一」の親密でパーソナルな関係の中で、宇多田ヒカルの歌を受け取ってきた。
 そういうタイプのアーティストが登場し、そのデビュー作が最も大きなヒットとなったことが、後に続く時代の変化の一つのうねりのようなものにつながったのではないかと、筆者は考えている。

 ***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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