平成ヒット曲史
2020/07/17

21世紀はこうして始まった 平成13年の「小さな恋のうた」(MONGOL800)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第13回は、MONGOL800の「小さな恋のうた」です。

9.11と不意のブレイク


「小さな恋のうた」(アルバム『MESSAGE』収録)

 2001年9月11日、アメリカ東部時間8時46分。
 ニューヨーク金融街の中心地にそびえ立つワールドトレードセンター・ノースタワーにアメリカン航空11便が激突した。緊急ニュース速報が世界中にその一報を伝え、テレビ番組は予定を急遽変更して黒煙を上げるビルの映像を生中継で伝えた。
 その17分後。今度はユナイテッド航空175便がサウスタワーに激突。爆発し炎上する航空機、ビルに燃え広がる炎、上階に取り残され窓から外をうかがう人々、崩壊する二つのビル、粉塵と瓦礫に包まれる街並み――。未曾有のカタストロフを世界中の人たちがリアルタイムで目撃した。
 まるで映画のようだ。最初は呆然とそう感じた人も多かった。しかし現実は容赦なかった。数十分後、ハイジャックされた3機目の航空機がアメリカ国防総省に激突する。事故ではなくテロリズムであることは疑いようもなかった。
 戦争が始まる。その確信が瞬時に広がっていった。ジョージ・W・ブッシュ大統領はテロ攻撃をアメリカに対す戦争行為だと宣言した。同年10月にはグローバルなテロとの戦争を掲げてアメリカがアフガニスタンに侵攻。2003年にはイラク戦争が開始される。
 こうして、21世紀が始まった。
 上江洌清作(うえず・きよさく)は、当時、大学生だった。9月11日の夜は、地元・沖縄の居酒屋で友人の誕生日を祝っていた。店のテレビでビルに飛行機が突入する様子を目の当たりにした。

「近くの米軍基地でサイレンが鳴り出して、厳戒態勢みたいになって、誕生会はそこで中止。それどころじゃない、帰りましょう、と」[1]

 上江洌はこう振り返る。
 その5日後の9月16日。彼が儀間崇(ぎま・たかし)、髙里悟(たかざと・さとし)と1998年に結成したバンドMONGOL800は、2枚目のアルバム『MESSAGE』をリリースした。
 大掛かりな宣伝は何もなかった。発売元は沖縄県宜野湾市のイベンターが立ち上げたインディーズレーベル「ハイウェーブ」内の「Tissue Freak Records」。当初はメディアからの注目もほぼゼロだった。しかし、曲を聴きつけた広告代理店からの熱心なアプローチのすえ、収録曲「あなたに」がライオンの洗剤「トップ」のCMに起用されたことをきっかけに火がついた。問い合わせが相次ぎ、年を越えてアルバムは売れ続けた。
「モンパチ」の名はあっという間に全国区になった。そして『MESSAGE』の3曲目に収録されていた「小さな恋のうた」は、シングル化こそされなかったものの、「あなたに」と並んで彼らの代表曲となった。沢山の人が、あのシンプルな、童謡のようなメロディを口ずさんだ。
 アルバムがオリコン週間ランキング1位となったのは2002年4月。同作はインディーズで初めてオリコンチャートで首位を獲得したアルバムとなり、結果、累計280万枚以上のセールスを記録した。
 全ては楽曲の力だった。

「そんなに売れているという当事者意識がなかった」(上江洌)
「通っていた徳島の大学の学食とかでモンパチの話をしている人がいるんだけど、僕のことが分からない。だから過ごしやすかった」(髙里)
「車の整備士になると思っていたし、ミュージシャンになろうと話し合ってなったわけではない。流れですね」(儀間)[2]

 ブレイク直後の時期を彼らはこう振り返る。
 バンドはマイペースな態勢を守り続けた。メジャーレーベルへの所属も、紅白歌合戦への出演も断った。沖縄から東京に拠点を移すこともなかった。そうして20年以上、活動を続けてきた。
 そのスタンスは、ロックバンドがブームに踊らされることなくキャリアを重ねていくようになった00年代以降の音楽シーンの一つの象徴でもある。
 なぜ、彼らはそうすることができたのか?

道を作ったハイスタ

 MONGOL800はパンクロックバンドである。もともとブルーハーツとHi-STANDARD(=ハイスタ)のコピーから始まった沖縄の高校の同級生3人組だ。
 時代を変えたのはハイスタだった。彼らの代表作『MAKING THE ROAD』のタイトルが示すように、文字通り、彼らは「道を作った」バンドだった。いわゆるメジャー予備軍としてのインディーズではなく、ロックバンドが本当の意味でインディペンデントな活動を貫く基盤を築き上げたバンドだった。
 影響元になったのは海外のパンクバンドたちのDIYな思想とスタイルだ。NOFXのファット・マイク率いる「FAT WRECK CHORDS」から1stアルバム『GROWING UP』(1995年)をリリースしたハイスタは、当初からアメリカのパンクシーンと地続きの価値観を持ったバンドだった。
 1997年にバンド主宰で初開催された野外フェス「AIR JAM」の影響力も大きかった。出演バンドは当時ほぼインディーズ所属ながら、動員は1万人を記録。同年に初開催されたフジロックと共に、日本に野外ロックフェスの文化を根付かせる端緒にもなる。
 そして、現象を決定的にしたのが、1999年のアルバム『MAKING THE ROAD』だった。自身が設立した「PIZZA OF DEATH RECORDS」からリリースした本作は国内外合わせて100万枚以上の売り上げを記録した。
「イカ天」が火を付けた80年代末のバンドブームが後に何も残さなかったのとは対象的に、ハイスタとAIR JAMの成功は、その後のロックシーンの土壌を耕す役割を果たした。だからこそ、00年代から10年代にかけても、ELLEGARDENや10−FEETなど、マスメディアの力を借りずとも確固たる支持を集め続けるバンドが後に続いたわけである。
 そして、モンパチも、ハイスタからバトンを渡されたバンドの一つだった。

「俺たちも、ハイスタとライブできたらいいよねっていうのが取り急ぎの夢だったんで、それがファースト作る前にかなっちゃって、これから先どうしようって(笑)」[3]

 上江洌がこう語るように、まだ音源もリリースしていなかった頃のモンパチを『MAKING THE ROAD』ツアーの沖縄公演のオープニングアクトに抜擢したのがハイスタだった。
 一方、Hi-STANDARDは千葉マリンスタジアムで過去最大規模の「AIR JAM 2000」を成功させたあと、実質的に活動休止状態に入る。
 モンパチが頭角を現した背景には、間違いなくハイスタの存在があった。そして、彼らの作った「道」があったからこそ、無名の存在からブレイクを果たしあれだけのメガヒットを成し遂げたバンドが、その後の狂騒に飲み込まれず、インディペンデントな活動を続けていくことができたと言っていいだろう。

変わらない日本、変わらない沖縄

 アルバム『MESSAGE』のヒットが一段落した後も、「小さな恋のうた」は、バンドの手を離れ、ひとり歩きを続けた。10年以上にわたってカラオケ曲の定番としてランキングの上位になり、様々な歌手にカバーされた。
 通信カラオケDAM(第一興商)が2018年末に発表した「DAM平成カラオケランキング」では、「小さな恋のうた」は1位の「ハナミズキ」に続いて2位となっている。90年代のミリオンヒットの数々を差し置いて、平成で最も歌われた楽曲の一つとなった。

 ほら あなたにとって大事な人ほど すぐそばにいるの
 ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け恋の歌

 歌詞にはこんなフレーズがある。シンプルなメロディで、わかりやすいストレートな言葉が歌われる。だからこそ、楽曲は長く愛され続けた。
 しかし、多くの人に純朴で真っ直ぐなラブソングだと思われているこの曲に本当に描かれていることを知る人は、あまりいない。

「アルバム発売が米同時多発テロの1週間後だったのはちょっと不思議、気持ち悪いなと思った。書いている内容がリンクして」[2]

 上江洌はこう語っている。
 書いている内容の何が「リンク」したのか。アルバム『MESSAGE』は、米軍基地のある沖縄で暮らしてきた彼らの目線から、素朴な言葉で、戦争と平和について歌った一枚でもあった。

 すべての国よ うわべだけの付き合いやめて
 忘れるな琉球の心 武力使わず 自然を愛する (“琉球愛歌”)

 矛盾の上に咲く花は 根っこの奥から抜きましょう
 同じ過ち繰り返さぬように 根っこの奥から抜きましょう
 そして新しい種まこう 誰もが忘れてた種まこう
 そしたら野良犬も殺されない 自殺するまで追いつめられない
 どこの国もやさしさで溢れ 戦争の二文字は消えてゆく (“矛盾の上に咲く花”)

 上江洌が「気持ち悪い」と感じたのも当然だろう。「琉球愛歌」や「矛盾の上に咲く花」のように、ある種の理想主義的なロマンティシズムで「戦争のない未来」を歌い上げた曲を収録したアルバムを作ったら、その発売直前に「新しい戦争の幕開け」となる同時多発テロ事件が起こったわけである。
 そういうアルバムに収録された楽曲が「小さな恋のうた」だった。そう考えると、なぜこの曲に「小さな」という形容詞が冠されているのかがハッキリする。それは、国家や戦争や自然環境といった「大きな」ものをその背後に意識しているからだ。そのうえで、目の前にいる「あなた」との関係だけにフォーカスを絞ったラブソングだからだ。

 2019年には、この曲に着想を得た映画『小さな恋のうた』が公開された。企画とプロデュースを担当したのは、モンパチの高校時代の後輩であり、「小さな恋のうた」のミュージックビデオを筆頭にバンドの映像作品のほぼ全てを手掛けてきた映像作家の山城竹識(やましろ・たけし)だ。
 物語の中では、5人の高校生とバンドの奮闘を通して「基地のフェンスが町を隔てる」沖縄のありのままの姿が描かれる。
 山城と脚本を担当した平田研也は、製作の背景で触れた「9.11」を、こんなふうに語り合っている。

「取材で米兵の上層部に9.11の話を聞こうとしたときは空気がピリっとしましたもんね」(山城)
「9.11の日を、僕ら本土に住んでいる日本人は、海の向こうの土地で大変なことが起きているという感覚で見ていたと思うんです。でも沖縄だけは違った。それは本土とは全く異なる感覚だと思います」(平田)
「夜中でも空が明るくて、戦争が始まったんじゃないかと思うほど、アメリカ軍の存在をまざまざと見せつけられた日でした。記者や報道関係者が取材した素材を没収されたという話もあった。これはあの日、沖縄にいなければわからなかったこと」(山城)
(『キネマ旬報2019年6月上旬特別号』)

 平成の30年間は、日本という国を、ゆっくりと、しかし確実に、変えてきた。流行歌はその変化に寄り添い、あるときは予兆のように響いてきた。この連載はそれを点と点のようにつないで紡いでいく物語である。
 しかし当然、変わらない現実もあった。その一つが、「小さな恋のうた」の遠景にあった、沖縄とアメリカだった。

[1]「モンパチ、200万枚売ってもインディーズの理由 名曲を映画化 – Withnews」
https://withnews.jp/article/f0190527004qq000000000000000W0bs10501qq000019264A
[2]「ハタチのモンパチが打ち明けた“あの頃”のこと MONGOL800結成20周年インタビュー〈上〉 – 琉球新報Style」
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-644229.html
[3]「音楽主義」(2013年9月号)

 ***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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