平成ヒット曲史
2020/09/18

スタンダードソングの時代へ 平成15年の「さくら(独唱)」(森山直太朗)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第15回は、森山直太朗の「さくら(独唱)」です。

会議室で歌うことから始まった遅咲きのブレイク


「さくら(独唱)」

 SMAPの「世界に一つだけの花」のCDシングルが大々的に発売された2003年3月5日、もう一つの平成を代表する曲が、ひっそりと店頭に並んだ。
 森山直太朗のシングル『さくら(独唱)』の初回プレス枚数はわずか1200枚。オリコン週間シングルチャート初登場は80位だ。森山直太朗は前年の10月にミニアルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』でメジャーデビューしていたが、そちらも世間の反応はほぼ無風。収録曲の「さくら」をシングルカットすることは決まっていたが、当時は事務所にも所属しておらず、所属レコード会社のスタッフにも名が知られていないような状況だった。プロモーション予算も極めて少なく背水の陣だった森山直太朗が始めたのが、九州から北海道まで、ギター1本を抱えてディレクターと二人三脚で全国のレコード店や地元のラジオ局に挨拶して回ることだった。

「ラジオ局の番組にも簡単に出られるレベルじゃないから、会議をしてるとこにノックして『おじゃまします』ってギター持って入って。『すいません、お仕事中』って言って歌うという」[1]

 名刺を渡して会議室で歌うところから始まった地道なキャンペーン活動は、全国に少しずつ支持を広げ、結果、大きなセンセーションを巻き起こす。オリコン週間ランキングでは登場5週目でTOP10入り、9週目にして1位を獲得。楽曲の力、歌の持つ力が大きな波紋となって広がっていった。筆者の取材に応え、森山は当時の状況をこう振り返っている。

「歌を歌うことで目の前の人を説得していくしかないという状況だったのは確かでした。だから、あの曲が本当に完成したのはレコーディングの後のような気がします。CDの白盤を持って全国行脚して、コミュニティFMの編成会議みたいなところで歌わせてもらうところから、とにかく一日何十回も歌って歩いてきた。地域の人たちとのふれあいを経て、曲を育ててもらったと思う。一緒に苦労を分かち合った曲だから、やっぱり思い入れが深いのは当たり前ですよね」[2]

 森山直太朗は1976年生まれで、デビュー当時は26歳。森山良子を母親に持ち、大学時代から共作者の御徒町凧と路上で歌い始めていた。2000年には舞台への出演をきっかけにV6の井ノ原快彦と出会い、デビュー前から氣志團の綾小路翔、宇多田ヒカルらとも親交が深かった。そうした環境も含めて考えると、2003年のブレイクは「遅咲き」と言っていいだろう。
 デビュー前の状況を、御徒町はこう語っている。

「当時にライブハウスでいろんな人に言われたのが『いいかもしれないけど時代遅れ』ということで。要は『これは売れない』みたいなことを遠まわしに言われた経験がすごくあるのね。俺自身も『まあ、そりゃそうだろうな』って思ってた。でも、俺は日本語の響きっていうのに魅せられてたのね。日本語はそもそも美しい響きを持っていて、直太朗はそれを体現できる稀有な人だという期待値があった。その実験の場だった」[1]

 なぜ「時代遅れ」と言われていた森山直太朗が「さくら(独唱)」で成功を掴んだのか。ヒットの背景からは、平成も折り返しを迎えた時代の空気感の変化を読み解くことができる。

「涙そうそう」と森山良子

 90年代のJ-POPが「ミリオンセラーの時代」だとするならば、00年代は「スタンダードソングの時代」だ。
 これまで本連載で見てきたように、90年代は流行歌の主役が次々と入れ替わっていくような時代だった。ビーイング系、渋谷系、ヴィジュアル系などなど、数々の「◯◯系」という言葉がメディアを賑わせた。小室哲哉や小林武史がプロデューサーとして脚光を浴びた。ミリオンセラーが次々と生まれる、華やかで移り気な時代だった。
 そして、90年代後半は海外の音楽シーンとの同時代性を打ち出すアーティストが次々と登場し脚光を浴びた時代でもあった。97年にはフジロック・フェスティバルが初開催され、くるり、ナンバーガール、スーパーカーといったオルタナティブロックの方向性を打ち出すバンドがデビューし注目を集めている。UA、MISIA、birdなど数々の女性シンガーがブレイクを果たし、R&Bのスタイルがメインストリームで大きく受け入れられるようになったのもこの頃だ。ヒップホップも一気に支持を拡大した。ドラゴンアッシュ「Grateful Days」(1999年)でフィーチャリングに参加したZEEBRAが放った「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達」というリリックは、その象徴になるパンチラインだった。
 そんな90年代後半に、森山直太朗は「時代遅れ」だった。
 母親である森山良子や、友部正人、家によく遊びに来ていたという玉置浩二などをルーツに掲げる彼。60年代から70年代のフォークや歌謡曲に連なる彼の志向性は、当時の潮流から明らかに浮いていた。
 しかし、そうしたムードは、00年代に入って、少しずつ変化を見せ始める。海外のムーブメントをいち早く取り入れリズムとサウンドの「新しさ」を打ち出す曲よりも、日本語の響きを前面に打ち出し朗々と歌い上げ「懐かしさ」を感じさせるタイプの曲のヒットが目立っていく。
 カラオケの人気曲に変化が生じるのも00年代に入ってからだ。90年代のカラオケ年間ランキングは、ほぼその年にリリースされた楽曲が上位を占めていた。しかしこの頃から、過去に発売された曲が何年も年間ランキングの上位に位置するようになる。カラオケにおける流行歌の消費が、「最新のヒット曲を歌う」ことから「定番のスタンダードソングを歌うこと」へと変わっていくのがこの頃のことだ。
 そうした変化の象徴として挙げられる一曲が「涙そうそう」だろう。
 この曲は、そもそもは森山良子の曲だ。最初に世に出たのは1998年のこと。自身が作詞し、沖縄のライブで親交を深めたBEGINに作曲を依頼、アルバム『TIME IS LONELY』収録曲として発表された。しかし当初は全く話題にならなかった。2000年にはBEGINがセルフカバーしシングルとしてリリースするが、これも大きく広まることはなかった。
 火がついたきっかけは、同郷の夏川りみによるカバーだった。この曲のロングヒットを受け、2002年に夏川りみはBEGINと共に紅白歌合戦に初出場を果たす。翌年の2003年には森山良子も歌唱に加わり、「さくら(独唱)」で初出場を果たした森山直太朗との親子共演も実現する。
 そこには、不思議な巡り合わせの糸が、何重にも絡まっていた。

カバーブームはどのようにして生まれたか

 2002年は、その後長く続くカバーブームの幕開けとも言える年だった。この年6月には福山雅治出演のバラエティ番組『福山エンヂニヤリング』内の企画から生まれたカバーアルバム『「福山エンヂニヤリング」サウンドトラック The Golden Oldies』がリリースされ、50万枚以上のセールスを実現している。1999年に演歌歌手としてデビューしていた島谷ひとみがヴィレッジ・シンガーズのカバー「亜麻色の髪の乙女」でブレイクを果たしたのも2002年だ。平井堅は、やはり2002年にリリースされた童謡のカバー「大きな古時計」で初のオリコン1位を獲得している。
 その夏川りみ、島谷ひとみ、平井堅がそろって出場した2002年の紅白歌合戦は、いわば、カバーソングがヒットし、リバイバルの潮流が前面化していた時代の空気を体現するようなラインナップだった。
「史上最もCDが売れた年」である1998年からたった5年で、流行歌をめぐる状況は確実に変わっていた。「さくら(独唱)」のヒットの背景には、そんな必然があったのである。

「桜ソング」の功罪

 そして、「さくら(独唱)」は、その後の「桜ソング」ブームの起点にもなった。
 「僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を」「さらば友よ 旅立ちの刻」と歌う「さくら」は、あくまで森山直太朗の原風景から生まれた曲だ。描かれているのは、彼が通っていた成城学園の通学路にあった桜並木の情景だという。春の別れと旅立ちをモチーフにした楽曲だ。
 おそらく森山自身にブームを当て込むような発想は全くなかっただろう。しかし、この曲がリリースされた2003年頃から、同じようなテーマやモチーフを用いた曲が如実に増え始める。同じく2003年には河口恭吾が「桜」でブレイク。2005年にはケツメイシの「さくら」、そして2006年にはコブクロの「桜」が、それぞれ年間を代表するようなヒット曲となる。
 そして2008年から2010年にかけては30曲以上の「桜ソング」がリリースされ、いわば“桜バブル”とも言える状況を呈するようになっている。
 その背景にあったのは「着うた」の普及だった。
 楽曲の一部をダウンロードし、携帯電話の着信音に設定できるこのサービスが開始したのが、ちょうどこの頃だ。当初は回線やデータ容量にも限界があり、曲の一部を「サビVer.」「AメロVer.」のように販売する手法がとられていた。こうした環境から、短い時間でも季節感と情景を伝えるための「わかりやすさ」がヒット曲の手法として重視されるようになっていく。そうした手法に最適なキーワードが、桜だったのである。それは、レコード会社の制作者たちが手堅い売り上げを狙い、冒険しなくなったことの象徴でもあった。
 当連載でも後述していくことになるが、00年代後半は音楽が「退潮していく」時代でもあった。CDの売り上げが徐々に落ちていっただけではない。こうやってメディアと業界によって仕掛けられたブームの前景化によって、ヒット曲から多様性が失われていく時代でもあった。

混沌としての平成

 2019年10月、森山直太朗はシングル「さくら(二〇一九)」をリリースした。ドラマ『同期のサクラ』(日本テレビ系)主題歌のオファーを受け、新たな形でレコーディングされた。
 自身の代表曲が再びリリースされたタイミングで森山は取材に応え「平成とはどういう時代だったと思いますか?」という問いに、こんな風に応えている。

「平成はいろんなものを淘汰する時代だったと思います。昭和に残してきた負の遺産もあったし、バブルの浮かれた中で何でもありみたいな時代になったこともあった。誰かがやめようって言い出さないとやめられないものもいっぱいあった。そういういろんな問題は、これからの時代の中で解消していくわけで。昭和が混乱だとしたら、平成は紛れもなく混沌で、その混沌からどう抜け出していくかが令和だと思います」

[1]『森山直太朗大百科』
[2]https://realsound.jp/2019/11/post-448603.html

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柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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