平成ヒット曲史
2019/07/19

昭和の幕を閉じた曲 平成元年の「川の流れのように」(美空ひばり)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上1番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第1回は、美空ひばりの「川の流れのように」です。

昭和が終わった翌日に


美空ひばり「川の流れのように」

「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに……」
 1989年1月8日、美空ひばりは、そう詠んだ。
 前日に昭和天皇が崩御し、新たな元号が「平成」と決定した。世間は慌ただしく、重苦しい雰囲気に包まれていた。
 自粛ムードは、天皇陛下の体調悪化が報じられた前年の秋から続いていた。メディアだけでなく、その影響は市民生活にまで広がった。バラエティ番組は差し替えられ、各地のお祭りや忘年会、新年会も自粛が相次いだ。
 崩御から2日間は、テレビは追悼特番とニュースだけの編成となった。CMも中止となった。全国の学校には、6日間は服喪にあたって弔旗をかかげ、歌舞音曲を伴う行事を差し控えるよう文部省から通達が出された。コンサートや演劇、寄席なども各地で中止や延期となった。
 世の中が大きく動く中、美空ひばりは、まるで一人台風の目の中にいるかのような、泰然とした言葉を残している。
 シングル『川の流れのように』が発売されたのは、その3日後の1月11日のことだ。

 知らず知らず歩いて来た 細く長い この道
 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える
 でこぼこ道や 曲がりくねった道
 地図さえない それもまた人生
 ああ川の流れのように ゆるやかに
 いくつも 時代は過ぎて
 ああ川の流れのように とめどなく
 空が黄昏に 染まるだけ

 おそらく、美空ひばりは確信していたのだろう。
 この歌が人々の記憶に強く焼き付いて残っていく、ということを。「知らず知らず歩いて来た 細く長い この道」という歌詞が、自身の人生を、そして一つの時代を象徴する言葉になっていくだろう、ということを。
 美空ひばりは、かねてから原稿用紙や便箋や色紙、雑記帳のようなノートに、思いついた詩や歌、散文、日記などを、日々書き綴っていた。自伝『川の流れのように』(集英社)には、それら数々の記述がまとめられている。そこからは、国民的スターとしての「美空ひばり」の役割を真っ向から引き受け、その運命に身を投じようとする彼女の姿が垣間見える。雑誌「鳩よ!」1989年1月号には、こんな言葉が掲載されている。

 私だって人間だもの さびしい時だってある
 悲しくって大声で叫びたい時だってある
 しかしそれは私には許されない
 なぜって私は「ひばり」だから
 いつも私はひとりぼっち

 すでに病は身体を重く蝕んでいた。
 前年の1988年4月11日には、長期の入院と療養を経た復帰公演となるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」が開催された。しかし体調は万全ではなかった。楽屋には、簡易ベッドと共に医師も控えていた。全39曲を歌いきったが、公演を境に病状はさらに悪化する。
 そんな中、再起をかけたアルバム『不死鳥パートII』の収録曲としてレコーディングされたのが「川の流れのように」だった。
 当初、制作側では「ハハハ」というノリのいい曲をシングル候補にしていた。しかし、これまで常にスタッフの意見を尊重してきたひばりが「これだけは私に決めさせて」と強く主張し、12月1日にリリースされたアルバムから、この曲がシングルカットされる。
 そして、これが生涯最後の曲となった。

秋元康と美空ひばり

「川の流れのように」の作詞は、秋元康が手掛けている。
 作曲は、とんねるず「雨の西麻布」やおニャン子クラブ「恋はくえすちょん」など、秋元康と組んで80年代に数々のヒット曲を世に送り出していた見岳章。秋元はアルバム『不死鳥パートII』全体の企画とプロデュースも担っていた。
 当時、秋元は30歳。「オールナイトフジ」「夕やけニャンニャン」「とんねるずのみなさんのおかげです。」など数々の人気番組の企画構成を手掛け、放送作家として飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた。しかし、その主戦場はアイドルとバラエティ番組。作詞家としても成功はしていたが、ひばりのいた歌謡曲の世界とは縁遠い、いわば軽佻浮薄な時代の象徴だった。
 なぜ、ひばりは最後の作品を秋元に託したのか。
 プロジェクトがスタートしたのは数年前、ひばりが療養に入っていた頃だった。かねてから作詞家になったからには美空ひばりと仕事をしてみたいと話していた秋元の言葉がひばりのスタッフに伝わり、「自分と遠い若い世代の人たちにメッセージを残したい」というひばりの意向と合致した。
 本格的にプロジェクトが動き出したのは88年に入ってからのことだ。その頃、秋元は芸能界の喧騒を離れニューヨークに移住していた。

 僕は31丁目にあるコンドミニアムに住んでいたんですが、その部屋の下にイーストリバーが流れていて、それを眺めながら「この川をずっといくと海に繋がって、その海は日本に繋がってるんだろうな」とか、ぼんやり考えていたんですよ。
 そんなときに日本からひばりさんが東京ドームで不死鳥コンサートをやると連絡があったんです。それで急遽帰ってこいっていう話になり、東京に帰って、東京ドームでひばりさんとお会いしてプロジェクトが再開しました。 [1]
 
 秋元は当時を振り返り、こう語っている。
 ひばりとそのスタッフたちは常に時代の流れにアンテナを張っていた。かつてのような大ヒットを送り出さなくなっていた70年代以降も、「セーラー服と機関銃」(81年)を手掛けた来生たかおを作曲、坂本龍一を編曲に迎えた「笑ってよムーンライト」(83年)など、下の世代の作り手を迎え新たなジャンルに挑んでいた。
 すでに名曲は沢山あった。東京ドームの「不死鳥コンサート」でそのレパートリーを歌うだけでもファンは満足し喜んだだろう。しかしひばりは、ポップシンガーとして同時代性にこだわり続けた。
 だからこそ秋元康に白羽の矢が立てられたのだろう。
「川の流れのように」の発売後、2月には全国ツアー「歌は我が命」がスタートした。しかし、すでに満身創痍の身体は舞台に立てるような状態ではなかった。楽屋に医師と酸素吸入器が控えた2日目の小倉公演を終えた彼女はそのまま入院し、ツアーは中止を余儀なくされる。
 6月24日、美空ひばりは52歳という若さでこの世を去った。多くの人がその死を悼み、そしてその死を昭和という時代の終焉と重ね合わせた。
 当時の週刊誌の追悼特集に、秋元はこんな言葉を寄せている。

 最後の楽曲になってしまった「川の流れのように」の詞を見せた時、「そうよね、人生って川の流れみたいよね。細い川があったり、広い川があったり、曲がりくねっていたり、まっすぐだったり、流れが速かったり、遅かったり……。でも、結局、みんな同じ海につながっているのよね」とおっしゃった言葉が、心の奥に思い出深い。きっと、僕が作詞家という人生を歩み続ける間、ずっとその川底で、ひばりさんの言葉がキラキラと輝いているだろう。
(「サンデー毎日」1989年7月16日号)

歴史の転換点と「思い出の目次」

 1989年は、歴史の転換点だった。
 この年は、世界の枠組み自体が大きく変わった一年だった。各国で様々な事件が相次いだ。6月4日には中国で天安門事件が起こる。11月9日にはドイツでベルリンの壁が崩壊。アメリカを中心とした資本主義陣営と、ソ連を中心とした共産主義陣営の対立構造は終焉に向かい、1ヶ月後の12月2日にアメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長によって行われたマルタ会談で、冷戦の終結が宣言された。
 戦後のイデオロギー対立から、その後に訪れるグローバル化へ。時代の分水嶺を、人々は「平成」という新しい年号と共に受け止めた。
 秋元康は、その後も美空ひばりと「川の流れのように」にまつわるエピソードを繰り返し語っている。「文藝春秋」創刊90周年記念号に寄稿された「同じ海に」と題した文章には、アルバム『不死鳥パートII』制作の裏側が、こんな風に明かされている。

 僕は、原稿用紙5~6枚のひばりさん宛ての企画書を一気に書き上げ、タイトルには、「思い出の目次」と付けました。
 流行歌は、その歌を聴くたびに「この歌が流れていたときは、こんなことがあったっけ」と、人それぞれが思い出を引き出す上での目次になるものです。たとえば「『東京キッド』が流行っていた時期には、こんなことをしていたな」とか。
 僕も自分の例を引いて「小学生の頃、祖母がテレビでひばりさんの『悲しい酒』を観て泣いていた」「『真赤な太陽』が発売された当時、父は高度経済成長期の猛烈サラリーマンでした」などと企画書に書きました。そうした流行歌の「思い出の目次」をいちばんたくさん持っている歌い手が、ひばりさんなのです。

「川の流れのように」のシングル盤は、美空ひばりの死後に売り上げを伸ばして100万枚を突破。1964年の「柔」に次ぐヒット曲となった。
 秋元の狙い通り、そしてひばりの確信の通り、「川の流れのように」は昭和から平成へと移り変わる時代の「思い出の目次」となったのだ。

二つの川が象徴する時代

「川の流れのように」から20年後。秋元康は再び川をモチーフにした歌詞を書いている。
 2009年10月21日に発売されたAKB48のシングル『RIVER』だ。前年にシングル『大声ダイヤモンド』でキングレコードに移籍し、続くシングル『言い訳Maybe』のリリースに際してはセンターの座を争う初の「選抜総選挙」を実施。「会いに行けるアイドル」をコンセプトに秋葉原の専用劇場で産声を上げたグループが「国民的アイドル」へと駆け上がっていくさなかにリリースされた「RIVER」は、グループ初のオリコン週間ランキング1位となった。

 君の目の前に川が流れる 広く大きな川だ
 暗く深くても 流れ速くても
 怯えなくていい 離れていても そうだ向こう岸はある
 もっと自分を信じろよ

 雄大な海に流れ着く川に人生を喩えた「川の流れのように」と対照的に、この曲での「川」は乗り越えるべきものとして描かれている。ミュージックビデオでもメンバーが川を渡る姿がフィーチャーされている。行く手を阻み自らを試す障壁の象徴としての「川」だ。
 秋元は、『別冊カドカワ 総力特集 秋元康』に収録された近田春夫との対談の中で、この曲についてこう語っている。

 メンバーがへとへとだったんです。自分たちが外に行ってもアイドルってことではね返されたり、あるいは自分が思うようにできないとか、そういうことがあった時期だったので。「ここを越えないとだめだよ」というのが「RIVER」なんです。

「RIVER」は、大きな夢を思い描きながら不透明な未来に向かって生きるブレイク前夜のAKB48が歌うからこそ大きな意味を持った曲と言える。
 前述の対談で、秋元は00年代後半の時代の空気をこう言い表している。

 時代は深刻になって、照れている場合じゃない

 昭和から平成へ、稀代の作詞家である秋元康は二つの「川」に時代を象徴させている。

[1]第86回 秋元康氏 作詞家 | Musicman-net:https://www.musicman-net.com/relay/63237

 ***

柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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