平成ヒット曲史
2019/08/16

大滝詠一とさくらももこ 平成2年の「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)【柴那典 平成ヒット曲史】

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平成とは、どのような時代だったのか――。
その手がかりを、各年を象徴する曲に探る「平成ヒット曲史」。
プロデューサーの時代、タイアップ全盛、「自分らしさ」、史上一番CDが売れた年……ヒット曲は諸行無常の調べ。音楽ジャーナリストが、ポップ・ミュージックを通して“平成”という時代に迫ります。
第2回は、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」です。

植木等から受け継がれたバトン


B・Bクイーンズ「おどるポンポコリン」

「わかっちゃいるけど やめられねぇ」
 タキシードに蝶ネクタイを結び、大きく顔をほころばせた植木等が歌う。
「スイスイ スーダララッタ スラスラ スイスイスイ」
 ステージで膝を曲げて踊る植木等を囲むように、扇子を持った沢山の出演者たちが集まってくる。
 1990(平成2)年の紅白歌合戦の主役は、まぎれもなく植木等だった。この年、自身とクレージーキャッツの代表曲をメドレーにした『スーダラ伝説』をヒットさせた彼は、1967年以来、23年ぶりに歌手として紅白歌合戦に出演する。その時の視聴率は56.6%。歌手別の最高視聴率だ。
 白髪の好々爺となった植木等が、笑いながら「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」「そのうちなんとかなるだろう」と歌う。その姿からは、やがて平成という時代の中で失われていく、能天気さとあふれんばかりの多幸感が放たれていた。
 美空ひばりと同じく、植木等もまた、昭和という時代の象徴だった。
 生まれたのは、1926年12月25日。大正天皇が崩御し、昭和に改元された当日だ。浄土真宗の寺に生まれ育ち、戦後芸能史を支えるエンターテイナーやミュージシャンの多くと同じく戦後には進駐軍のクラブやジャズ喫茶で演奏していた植木等。ハナ肇とクレージーキャッツの一員として世に出た彼は、1961年に発売された『スーダラ節』の爆発的なヒットで一躍国民的スターの座に躍り出る。翌年公開された映画『ニッポン無責任時代』が、その人気を盤石にした。
 キャッチコピーは「日本一の無責任男」。俳優であり、コメディアンであり、歌手である彼が、どんな風に昭和という時代を象徴したのか。そして、その存在は、どう受け継がれたのか。
 そのことは、平成という時代を語る上で、とても大事なポイントになる。
 この「平成ヒット曲史」でも、SMAPを語るときに、また、星野源を語るときに、クレージーキャッツの名前は繰り返し登場する。

 昭和が終わり、平成が始まる。
 1990年はそういう年だった。この年、社会現象的なヒットとなったのが、アニメ『ちびまる子ちゃん』と、そのエンディングテーマであるB.Bクィーンズ「おどるポンポコリン」だ。
 作詞を手掛けたのは、『ちびまる子ちゃん』の作者、さくらももこ自身だ。
 彼女もまた、植木等から、クレージーキャッツからバトンを受け取った一人だった。
 さくらももこの自伝的作品である『ちびまる子ちゃん』のエピソードの一つに、テレビばかり見ているまる子に向かって、父・ヒロシが「いったい将来、何になるつもりだ?」と質問する場面がある。テレビを指して「クレージーキャッツに入りたい!」と答えたまる子にヒロシが「それは無理だ」と肩をすくめると、まる子は、「じゃあ、この歌を作った青島幸男さんみたいになりたいよ」と言う。
 青島幸男は「スーダラ節」を作詞し、さくらももこは「おどるポンポコリン」を書いた。
「ピーヒャラピーヒャラ パッパパラパ」
 意味のない、しかし、だからこそ強度のある言葉が、世を席巻した。
 さくらももこは、「青島幸男さんみたいに」なった。まる子は夢を叶えたのだ。

ビーイングとは何だったのか

「おどるポンポコリン」は、ミリオンセラーが続出する90年代の幕開けを飾る1曲になった。
 4月4日にリリースされたこの曲は、アニメの人気と共に徐々に火がつき、6月18日付のオリコン週間シングルチャートで10位圏内に初登場する。そこからヒットはさらに拡大し、9月にはセールス枚数が100万枚を突破。10月にはアニメも最高視聴率39.9%を記録した。旋風は1年にわたって続き、この曲は1990年のオリコン年間ランキング1位となった。
 そして、「ビーイング系」と呼ばれる一大ブームをもたらすきっかけを作ったのも、やはりこの曲だった。
 音楽制作会社「ビーイング」は、音楽プロデューサーの長戸大幸によって、1978年に設立されている。「おどるポンポコリン」の作曲を手掛けた織田哲郎は、初期からビーイングのヒット曲の数々を手掛けた立役者。そして、この曲を歌ったB.B.クィーンズは、リーダー近藤房之助、坪倉唯子など、実力と経験を兼ね備えたセッション・ミュージシャンたちによる企画ユニットだ。
 1986年にはTUBEが「シーズン・イン・ザ・サン」をヒットさせ、1988年にデビューしたB’zが「太陽のKomachi Angel」を初のオリコン週間1位に送り込んだのが、やはり1990年6月のこと。ZARD、T-BOLAN、WANDS、大黒摩季などが次々とデビューして世を席巻し、いわゆる「ビーイング系」のブームを作り出すのが1992年から1994年あたりのことだ。
 これらビーイングに所属するアーティストのイメージからは、コミックバンド的な雰囲気を漂わせるB.B.クィーンズは、一見、異質な存在に思える。
 しかし、ビーイングの最初のヒット曲がやはり企画ユニットであるスピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」(1978年)であることを考えると、やはり、B.Bクィーンズも、まさに「ビーイング系」の本流の一つに位置づけられるだろう。
 ビーイングとは何だったのか。
 ひとことで言うならば、それは歌謡曲からニューミュージックの時代を経て、日本の音楽産業に再び「分業制」のシステムを再構築する試みだった。
「僕は50年代、60年代、70年代のドーナツ盤のコレクターで、そこに関しては日本随一かもと自負している。あまりの数のコレクションに財団法人(ポップスレコード研究会)まで作ってしまった位です。そのためヒット曲の琴線に触れる感覚を感じていて、それが自分の中に構築されているんだと思います」
 長戸大幸はこう語っている[1]。
 阿久悠の事務所に作曲家として所属していた長戸は、レコード会社の専属契約のもと、歌手と作曲家、作詞家、演奏家が分業制で1曲を作り上げる歌謡曲のシステムの中でキャリアを積んだ音楽プロデューサーだった。
 一方で、60年代から70年代にかけて広まった日本のフォークやロックは、そのほとんどが「自作自演」による楽曲だった。吉田拓郎も、松任谷由実も、サザンオールスターズも、自ら作詞作曲し、それを歌うシンガーソングライターであり、バンドだった。同じポピュラー音楽であっても、その作られ方には大きな違いがあった。
 B.Bクィーンズは、80年代末から90年代初頭にかけてのバンドブームに対するカウンターとしての意味合いも持っていた。
 ジュン・スカイ・ウォーカーズなど原宿の歩行者天国で演奏していたバンド、たまなどテレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』で脚光を浴びたバンドが一躍スターダムを駆け上がり、「イカ天」「ホコ天」というキャッチコピーで括られていた時代。それはロックバンドにおけるアマチュアリズムの過剰な称揚だった。
 対して、ブルースシンガーとしてキャリアを積んできた近藤房之助らが集められ、B.B.キングをもじって名付けられたB.Bクィーンズは、ある種のプロフェッショナリズムに裏打ちされた「音楽の遊び心」を表現するグループだった。
 長戸大幸は『ちびまる子ちゃん』の単行本を読んで感激し、さくらももこに会いにいき、そこでアニメ化の話を聞いたことから主題歌の制作を担当することになる。
 90年代のJ-POPは「プロデューサーの時代」と言われることになる。しかし、その代表的な存在である小室哲哉や小林武史と違い、プロデューサーとして長戸大幸が徹底していたのは「分業制」のシステムと、それによってアーティスト性よりも企画性を前面に出すスタイルだった。
 こうして「おどるポンポコリン」は、90年代のJ-POPの時代の先鞭にもなった。

平成の「スーダラ節」

 さくらももこは、その後も『ちびまる子ちゃん』主題歌の数々の作詞を手掛けている。やはり子供時代からの憧れだった西城秀樹が歌った「走れ正直者」。小山田圭吾が作曲、カヒミ・カリィが歌い、「渋谷系」の時代の象徴の一つにもなった「ハミングがきこえる」。いくつもの名曲があるが、やはりここで取り上げるべきは、1995年にリリースされたシングル『うれしい予感 / 針切じいさんのロケン・ロール』だろう。
「うれしい予感」は、大滝詠一が作曲、渡辺満里奈が歌った第2期オープニングテーマ。そして「針切じいさんのロケン・ロール」は、植木等が歌ったシェブ・ウーリーのカバーで、さくらももこが訳詞を手掛けている。
 どちらもプロデュースを手掛けたのは大滝詠一だ。
 さくらももこは、大滝詠一の長年のファンでもあった。
 デビュー30周年を記念して刊行されたムック『おめでとう』(2014年)には、この曲が生まれた背景を綴った「ナイアガラよ永遠に!!」という記事がある。大滝詠一にテーマソングを作ってもらおうとダメ元で依頼したところ、「もし今年、ジャイアンツが優勝したら、ちびまる子ちゃんのテーマソングを作ります」という返事が来た。「それで私も、いつもの年よりも必死でジャイアンツを応援した」というさくらももこの祈りが通じたのか、ジャイアンツは優勝し、「約束通り、まる子ちゃんのテーマソングを作ります」と書かれたFAXが届いたという。
 さくらももこと植木等を結びつけたのも、やはり大滝詠一だった。
 そもそも、1990年に『スーダラ伝説』のプロデュースを手掛け、歌手としての植木等の復活の立役者になったのも、大滝詠一だった。
『スーダラ伝説』のブックレットには、「厚家羅漢」というペンネームで書かれた大滝詠一の解説が収録されている。

 メドレーを聞き終えて感じるのは、この曲が大流行したこの頃が、大人の歌を子供が歌った最後の時代であった、ということだ(この後の子供は自らの成長と共に、GS、フォーク、ロックと自前の音楽を持つことになる)。「お富さん」を歌った小学校時代、「スーダラ節」を歌った中学時代、どちらも親に「そんな歌、歌うんじゃありません!」と叱られたが、今では子供の歌「踊るポンポコリン」を親が歌い、ムスメに「こんな歌を歌う父が……、かわいい」とリハウス調にいわれる時代となり、参議院だけではない〈ネジレ現象〉が生じている。こどもに〈カワイイ〉といわれる努力を親がしているのが現代とすれば、このような大人になれ!!! と逆説的に説いた植木等は、最後の〈子供の教育者〉であったかもしれない(ということは、最初の〈大人の教育者である子供〉は〈ちびまる子〉ということだろうか?!)。

 1990年の時点で「おどるポンポコリン」を「スーダラ節」と結びつけていた大滝詠一は、平成という時代を「こどもに〈カワイイ〉といわれる努力を親がしている時代」と喝破していた。
 慧眼だと思う。
「うれしい予感」は、大滝詠一らしいオールディーズのアメリカン・ポップな1曲だ。さくらももこは、こんな歌詞を書き下ろしている。

 いつかみていた夢が 今日はかなうといいな
 そんなことが おこりそうだよ ほんと ほんとだよ
 魔法かけてくれた天使が ここにいるんだよ

[1]独占インタビューに成功!伝説の長戸大幸プロデューサーが語る坂井泉水の真実 | 【es】エンタメステーション:https://entertainmentstation.jp/36195/2

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柴那典/しば・とものり
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

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