山田ルイ53世(髭男爵)『一発屋芸人列伝』
2018/05/31

レイザーラモンHG 一発屋を変えた男(後編)

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レイザーラモンHG
レイザーラモンHG

綺麗で正気、でもハードゲイ

 レイザーラモンHG。
 本名、住谷正樹は、兵庫県出身である。
 年齢は僕と同じ41歳(取材当時)だが、芸歴は彼が1年先輩。
 世間の彼に対するイメージは、ハードゲイ、一発屋芸人、プロレスラーと言ったところか。
 しかし、僕の抱くHG像は違う。
「HGは綺麗である!」
 これに尽きる。
 清潔感でも良いのだが、より率直に表現するなら綺麗という言葉しかない。
 セールスポイントである鍛え上げられた肉体美は勿論、プロレスのマットで培ったキレのある身のこなし。近年精を出すモデル業の為か、手入れされたお肌はツルツルである。素顔は端正で、なかなかの男前。サングラスの下に輝くつぶらな瞳は、穏やかなその人柄を満々と湛えている。
 声も低く、深みが……賛辞は尽きぬがこの辺で止めておく。もはや、どちらがハードゲイなのか分からない。
 ちなみに、僕の相方樋口も、彼のことを語る際、
「本当HGさんって、綺麗だよねー……」
 溜息混じりの、オネエ口調になる。
 この綺麗さ、つまりタレント性こそが、明らかにテレビには不向きなキャラクター、ハードゲイを、お茶の間に浸透させ得た大きな要因の一つだと筆者は考える。
 綺麗は素敵で無敵なのだ。
 加えて、先述した通りの人格者。真っ当な人間である。
 ここで、一つの疑問が湧いてくる。
「そんな、真っ当で綺麗な人間が、ハードゲイという“狂気”を身に纏うのは、さぞかし葛藤があったのではないか」
 髭を生やし、シルクハットを被る筆者の“貴族”というキャラクターは、正統派の漫才で結果を出せず、鳴かず飛ばずの日々を送った末の已(や)むに已まれぬ決断だった。普通の漫才師からコスプレキャラ芸人にメタモルフォーゼ(変態)した当初は、「本当にこれが正解なのか?」と挫折感に苛まれたものである。
 彼とて同じはず。正気のまま狂気を纏うために、迷い、苦しんだに違いない。

 HGの属するコンビ、レイザーラモンの芸歴は、「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」の福笑い大賞受賞から華々しく始まっている。この大会は現在も大阪の今宮戎神社で毎年開かれており、関西における若手漫才師の登竜門として、過去には宮川大助・花子、ダウンタウン、ナインティナインらも輩出した由緒正しき賞レースである。レイザーラモンはそこでいきなり約200組の頂点に立ち、東京のプロダクションからも声をかけられるほどの逸材だった。
 さらにHGは、その後入団した吉本新喜劇でも、“うどん屋の店主”に抜擢される。終始舞台にいて、ボケる人にツッコむ役回り。場を仕切れる人間でなければ務まらない。
 天然でもなければポンコツでもない。
 むしろ、お笑いエリート。
 ただただ才気あふれる若手芸人だったわけだ。少なくとも、彼のハードゲイは、お笑い劣等生が、キャラによる“ドーピング”を目論んだケース、つまり、筆者の場合とは異なる。
 ハードゲイの誕生は、先輩の鶴の一声だった。HGの相方、レイザーラモンRGによれば、
「住谷は昔から変わった格好をするのが好きで、変な毛皮やベストを着たりしてたんです。そしたらケンドーコバヤシさんが『お前、ハードゲイか!』って」(「お笑いTYPHOON! JAPAN」2005年)
 この言葉で、HGは覚醒する。
「“ハードゲイ”という言葉を耳にした時、『この言葉、めっちゃパワーあるな!』と思って、突き詰めていった」
 彼はそこから試行錯誤を重ね、サングラスとピチピチのレザーファッションを身に纏ったハードゲイスタイルに辿(たど)り着く。このキャラクターを世に出す機会を虎視眈々と窺っていたHG。
「吉本新喜劇にいた頃、ハードゲイのキャラクターが完成しつつあったので、自信を持って社員にプレゼンをした。こういうのありますよ、どうですか? と」
 すると、
「いやお前……お昼の生放送で無理やろ!」
「アカンで、あんなん! 顔隠して何してんの? グラサン取り!」
 まさに一蹴。全く相手にされない。
 とは言え、社員の方を責めることも出来ない。当然の判断である。
 家族で楽しむ昼間のテレビに、ある日突然ハードゲイが登場し、腰を振りだす。お茶の間は、さぞかし気まずい空気に包まれることだろう。
 結局、その時は社員と喧嘩になり、暫く役も貰えず“干された”状態になったという。
 だが、HGはあくまでポジティブであった。
「それでも僕はハードゲイを信じ続けた」
「ハードゲイが悪いものとか、葛藤することはなかった!」
「とにかく、ハードゲイが好きで信じてやってたから!」
 さながら、愚直な若者の熱い気持ちを歌いあげたラブソング。
“君”とか“愛”に置き換えれば腑に落ちるが、“ハードゲイ”である……もはやよく分からない。とにかく、編み出したキャラクターに絶対の自信を持っていたことだけは伝わってくる。
 2000年初頭にハードゲイキャラを思い付き、大ブレイクしたのが2005年。売れるまでの5年間、彼はハードゲイの研究、情報収集を重ね、キャラを練り上げていく。
「大阪における新宿2丁目的な場所に通って、色々とお話を聞いたりとか。時間もあったので、ニューハーフパブでボーイとして働くことにした。そしたら『ショーに出てくれ!』となって、マッチョな男性と女性のショータイムに出してもらった。まぁ全員男性ですけど」
 偏執的なまでの飽くなき努力。
「自分は、本当のゲイではないから」
 というのがその理由だが、もはや、キャラ作りというより役作り。デ・ニーロ・アプローチならぬ、“住谷・アプローチ”である。実にストイックだ。
 それだけではない。
「やはり、スジを通さないと駄目」
 と、彼の熱弁は続く。
「一応、大阪の堂山というハッテン場(男性同性愛者の出会いの場)に、昔からいらっしゃる重鎮の方に挨拶に行って。『こういうことをやろうと考えてるんですけど、色々教えてもらえませんか』と。東京に来た時は、新宿2丁目の老舗のお店に挨拶に行った」
 更には、おすぎとピーコ、ピーターの元へも挨拶に赴き、許しを得たという。
 ここまでして練り込まれたキャラクターは、重厚さ、つまり面白さの桁が違う。
 ハードゲイは、数多のコスプレキャラ芸の中でも、最も高い精度で、緻密に組み上げられたネタなのだ(余談だが、我々も、同じ“グラス持つ芸人”の大先輩である、ゆうたろうの元へ挨拶しに行ったことがあったが、それはたまたま現場が一緒になったついでの行為であり、込められた誠意には雲泥の差がある)。
 結果、「爆笑問題のバク天!」(TBS)で人気に火がつき、全国的に大ブレイクを果たす。その後の活躍はご承知の通り。
 綺麗で素敵なHGが、正気のままハードゲイという“狂気”を纏うのは、さぞかし葛藤があっただろう──僕の疑問は、その前提から見当違いであった。
 彼は正気ではない。
 HGの笑いへの向き合い方は、十分に、常軌を逸していたのである。

正統派漫才への移行

 HGはその狂気、もとい、熱い想いを後輩達に伝えることも躊躇しない。
「自分の生み出したキャラに誇りを持て!」
「“フォー”や“ルネッサーンス”を伝統芸にしていけばいい!」
「自分で自分のギャグに飽きたらダメ! 常に全力、100%の“フォー”を心がけるんや!」
 そう言っていた当の本人が、ある日、スーツ姿で普通に漫才を始めた時は、彼を尊敬してやまない僕も、流石(さすが)に顎が外れそう、いや、砕けそうになった。
 正統派漫才への移行。コスプレキャラ芸人からの脱却……いや、逃亡である。
(話が違うじゃないか!)
 裏切られた気持ちもあったが、正直に言うと、僕は羨ましかった。
 我々コスプレキャラ芸人にとって、“普通の漫才師”は憧れである。
「変な格好したから売れたんでしょ?」と、見下されがちな一発屋。
 奇抜な衣装や小道具を捨て去り、マイク一本、喋りのみでの勝負──再ブレイクの究極の理想形である。
 それを先んじてやってのけたのは、やはりHG、レイザーラモンであった。
 正統派漫才に対する憧れは、
「ずっとあった」
 と彼は言う。
(あったんかい!)
 心の中でツッコむ。
「レイザーラモンがデビューした当時は、大阪のお笑いは劇場ブームで、お客さんは中高生の若い子達。人気があるのは、ルックスが良くて、スタイリッシュな漫才をする芸人。当時で言うとNONSTYLE、キングコング、ロザンとか。我々の芸風はその逆。むさ苦しい男二人でプロレスコントとかをしてたので、全然人気がなかった。その時は反骨精神というか、『あいつらにインパクトで勝ちたい!』という思いでめちゃくちゃなコントをやったりしてた」
 しかし。
「やっぱり漫才には憧れてた。格好良いなと。スーツだけ持って移動したりとか」
 同感である。
 荷物の大きい芸人はみっともない。芸人の実力と荷物の大きさは、反比例の関係にあるとさえ筆者は思っている。
 キャラ芸人の一発屋から、華麗なる転身を果たしたHGは、2013年、コンビでの正統派漫才で「THE MANZAI」(フジテレビ)の決勝大会に進出。爪跡を残した。
 一発屋では、誰も成し得なかった快挙。奇跡のリカバリー。
 後を追うように、僕もスーツで漫才をしてみたが、2回戦で散った。

嫁のポルシェ

 男気があり、優しく前向きで、芸人としても優秀。常に一発屋たちの先頭をひた走る。
 僕のHGに対する尊敬の念は日に日に増し、もはや堅固な“城”と化していた。
 あの爆音を聞くまでは。
 数年前。とある番組の収録。現場にはHGもいた。
「お疲れさまでしたー!!」
 先に出番を終えた彼が我々を残して控え室を出ていく。
 収録現場は山の中のホテル。夜も深い時間帯、辺りは静かである。
「ウォン……ウォンン……ウォーーン!!」
 突如、爆音がその静寂を切り裂いた。
 窓の外から聞こえてくるのは、車のド派手なエンジン音……ポルシェである。
 ハンドルを握るのはHGであった。
「やっぱ、凄いなー! ポルシェか!!」
 一発会の検証トークでは、小島よしお同様、“2発”に認定された男。現状がどうであれ、当時の稼ぎは相当なものだったろう。
「格好いいなー……」
 感嘆の声を上げる僕に、スタッフが耳打ちする。
「あれ、奥さんのポルシェらしいよ」
(……ん? 嫁のポルシェ?)
 僕の心の中で、何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。
 例の尊敬の城である。
 普段の男気溢(あふ)れるHGの言動と、嫁のポルシェ。まさに水と油。僕は激しく動揺していた。
 崩壊する城から、危機一髪で飛び出し難を逃れたポルシェが、窓の外でみるみる小さくなっていき、
「嫁のポルシェ、フォーー!!」
 運転席の男の雄叫びが、山間に木霊(こだま)する……そんな妄想にかられた。
 嫁の歯ブラシ、嫁の茶碗、嫁の食べかけのポテチ。我が家の“嫁の”シリーズはこの程度。通常、嫁はポルシェなど持たぬ。
 僕の歩んできた人生では、ポルシェを持つ者といえば、社長。
 そして、HG夫人・住谷杏奈氏は、案の定と言ってはおかしいが、社長なのである。冒頭の一発会を開催した洒落たレストランも実は彼女がオーナー。
 2009年、プロレス仕事で大怪我を負ったHGが休業を余儀なくされるまで、彼女は専業主婦だったが、夫が入院した翌日から仕事を探し始め、石鹸やスパッツのプロデュースで大成功。今では、年商5億。女傑である。
 僕はその日、最も訊きたかった質問をHGにぶつけた。
「嫁のポルシェ、まだ乗ってます?」
「うん、乗ってる!」
 何故か爽やかに答えるHG。
 くどくて申し訳ないが、嫁のポルシェ……なんと“ヒモ”感溢れる言葉だろうか。実際彼自身、そう呼ばれた時期があった。
「確かに、ヒモと言われてた時は辛かった。プロレスで怪我して、全てがゼロになって。そこで奥さんが働いて成功すると、僕のテレビの出方は“ヒモ芸人”になる。プライドもあったので、『クソッ』とか、『嫌やなー』という気持ちもあった」
 当時、HG自身の芸人としての月収は7000円にまで落ち込んだ。夫婦喧嘩や、奥様が嫌味を言うようなことはなかったのか。
「僕が怪我して休業した時は、一切文句も言わず、『じゃあ、今度は私が働きますわ』って感じだった」
 もはや「ギャフン」と言うしかない。勿論人生初である。
「長い目で考えたら妻は人生を共にしていく女性……一緒の人生なので、持ちつ持たれつでええかな、と受け入れた時期があって。その辺から、別に嫁のポルシェだろうが、嫁のマンションだろうが、全然居心地よくなったかな」
 苦難を乗り越え、より強固となった夫婦の絆。
「嫁のポルシェ乗って恥ずかしくないんすか!?」
 馬鹿な質問をしたものだ。
 恥ずかしいのは僕である。
 以来、筆者の中で、嫁のポルシェは「一杯のかけそば」並みの“ええ話”となった。
 一度崩れかけたHGに対する尊敬の念、心の中の城は元通り。いや、夫人に対するリスペクトが加わった分、以前より建て増しされている。
 最後に聞いてみた。今の状況は失敗と成功、どちらなのだろうか。
「勿論、失敗ではない……でも、失敗しかけたとは思う。失っていったからね、仕事とか色々。怪我したときは自暴自棄にもなった。でも、挫折しかけたのを周りに助けられた。奥さん然り、相方然り。そこでプライドを捨てて、助けて貰うために手を差し出したのが良かった。変なプライドに固執して助けを求めなかったら……やばかった」
 夫婦で受けた雑誌のインタビューの中で、奥様はこう語っている。
「これからは彼(HG)のプロデュースにまわろうかなと」
「いずれはビルを丸ごと借りて、ジムのプロデュースを任せたい。地下と2階をトレーニングジムにして、1階は筋肉によい食事を出すカフェにしたいな」
 早晩、実現するだろう。
 たとえ、それが“嫁のジム”でも関係ない。男とか女とか、そんな線引きは何の意味も持たぬ。
 何故なら彼は稀代の一発屋……“ハードゲイ”なのだから。

©YOSHIMOTO KOGYO CO.,LTD./©松竹芸能株式会社
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