レイザーラモンHG 一発屋を変えた男(前編)
2016年、某月。
新宿駅に隣接する劇場「ルミネtheよしもと」の楽屋で、僕は或る男を待っていた。彼にインタビューをするのが、その日の仕事である。
或る“男”と書くのは、正確ではない。
僕の待ち人は、或る“ハードゲイ”……レイザーラモンHG、その人である。
「ヒロシです……」
「残念!」
「やっちまったなー!」
一時期、お茶の間を賑わせたものの、その後テレビへの露出が激減し、人々から“消えた”と揶揄(やゆ)される芸人達。
世間では、等しくこう呼ばれている。
“一発屋芸人”と。
僕もHGも、ご多分に漏れずその不名誉な烙印を押された身である。
一発屋が一発屋にインタビュー。
耳を澄ませば、
「ピチャ、ピチャ、ピチャ……」
と水分多めの音が聞こえてきそうだが、この連載の目的は、勿論傷の舐め合いなどではない。そもそも、我々の負った傷は、唾液程度で癒える軽傷でもない。
一発屋は、本当に消えてしまった人間なのだろうか。
否である。
彼らは今この瞬間も、もがき、苦しみ、精一杯足掻きながら、生き続けている。
本書は、自らも一発屋である筆者の目を通して、彼らの生き様を描いていく試み。
一発屋の、一発屋による、一発屋へ捧げる拙稿が、悩み苦しむ芸人達のゲティスバーグ演説となれば幸いである。
遡ること1年半ほど前。都内のレストランで、とある会合が開かれた。
テツandトモ、小島よしお、コウメ太夫、ゆってぃ……それぞれ時代を代表する一発屋、総勢15人が集結。会場となった代官山のお洒落な店には少々似つかわしくない顔ぶれだが、なかなか壮観である。
一口に一発屋と言っても、その瞬間最大風速、ブレイク度合いには正直なところ、差がある。1回売れた当時の最高到達点や期間は、年々低く、短くなってきており、一発屋は小粒化傾向にあるのが現状である。最近では、数か月と持たず、その“一発”を終えるものも少なくない。
様々な話題が俎上に載せられた一発屋達の集(つど)いで、最も盛り上がりを見せたのがまさにそれ。
「一体、自分は○発屋なのか」
という検証トークである。
例えば、ダンディ坂野。2003年に「ゲッツ!」で一世を風靡した彼を丁度1発とすると、我々髭男爵は、せいぜい0・8発だ……といった具合。
小島よしおの場合は、1・5発、あるいは2発。何しろ、郵便切手の図案になるほど売れた男である。もはや、偉人レベル……桁が違う。
「○○は1・2発はあるんじゃない?」
「ちょっと待って……そうなると、△△は0・2発くらい?」
「いや、0・2発ってそれブレイクしてないでしょ!?」
世間的には一切興味のない話題だろうが、今宵の面子(メンツ)なら否応なしに盛り上がる。
皆の議論に耳を傾けながら、僕は一人、あらぬ都市伝説を妄想し、背筋を凍らせていた。
「数字を全て足したら、“8・6”になるんじゃ……」
頭の中で、
「ちょっと待って、ちょっと待ってお兄さん!」
と、何者かが制止してくれなければ、実際に足し算を始めていたところである。
我々、髭男爵の持ちギャグ「ルネッサーンス!」による乾杯の発声に始まり、“Mr.一発屋”の「ゲッツ!」の唱和で締められたこの集まりは、一発会と名付けられた。
一発屋界を変えた男
2015年春の一発会そして同年夏に開催され、総勢24組の芸人が参加した“一発屋総選挙”なるイベント。
事務所の垣根を越えた一連のムーブメント……と言うにはやや小規模な感は否めないが、小島よしおやムーディ勝山といった面々と共に発起人に名を連ね、その腰振り役、もとい、旗振り役を務めた人物こそ、レイザーラモンHGである。
話を冒頭の、「ルミネtheよしもと」の楽屋に戻そう。
舞台の出番を終え、筆者の前に現れたHGの顔には、トレードマークのサングラスは見当たらない。素顔である。しかも、紺のスーツ姿。ハードゲイの面影は欠片(かけら)もないが、間違いなくステージを降りた直後である。私服に着がえたわけではない。実は、これが彼の最新の“戦闘服”なのだ(HGの現在の芸風については後述する)。
僕はかねてよりHGに尋ねてみたいことがあった。
何故、一発屋を集めた活動を始めたのかということである。
一発屋という境遇こそ同じだが、あくまで芸能界で競い合う、ライバル同士。下手をすれば、敵に塩を送ることになりかねない。
事実、前出の一発屋総選挙において、初代王者の栄冠に輝いた我々髭男爵は、少々注目を浴び、若干仕事のオファーも増えた。
一方、イベント開催に奔走したHGはと言えば……24組中20位。流した汗の対価としては、釣り合わぬ報酬である。
全く“おいしく”なかったはずなのだ。
なのに、何故……疑問をぶつけると、舞台後の上気した顔でHGが話し始める。
「一発屋と呼ばれる人達は、“キャラ芸人”が多い。キャラに入り込むタイプの人間は、社交が苦手で、孤立する人が実は結構いる。だから、『一緒にやろうや』と」
続けて、
「僕達には、経験してきたものをこれからの一発屋に伝える役目がある。『ブレイクしたらこんなことが起こりますよ……だから気を付けましょう!』と、毎年誕生する一発屋の子達に対処法や、受け皿を提供したい。そんな組合的なスタンスでやらしてもらってる」
終始穏やかな語り口は、もはや芸人のものではない。断酒会か何かのリーダー、あるいは、NPO代表のそれである。実際、一発会は悩み多き芸人達の、心のセーフティネットとしても機能しているので、当たらずといえども遠からず。
僕が常日頃から彼を、
「一発屋界の添え木」
と呼んでいる所以である。
落ち目となり、傷付き、心がポキポキと複雑骨折状態の一発屋。放置すれば、歪(いびつ)な形で固まってしまう。
そこに添えられるのは、HGの男木、もとい、男気という名の一本の枝なのである。
「僕達って、飽きたとか、面白くなくなったとか言われるけど、その言い方は合ってないと思う。やってることはずっと面白い。ただ、皆が“知り過ぎてしまった”だけ。そもそも、面白いものを提供したからこそブレイクしたんやから!」
彼の発信するポジティブなこれらの言葉は、一発屋のあり方を変えたといっても過言ではない。それまでの一発屋は、ただただ惨めで可哀そうな存在。彼ら自身が口にするコメントも、メディアの取り上げ方も、自虐一辺倒な時代が長く続いた。
しかし、最近では、
「しぶとく生き残っている人達」
「久しぶりに見たら面白いネタ特集」
等々、一発屋に対するメディアの切り口、光の当て方も変わりつつある。売れっ子当時の最高月収を発表するだけではない、“生きた”一発屋の姿が、お茶の間に届く機会が増えた。
HG以前とHG以後で一発屋芸人の世界は、只の化石博物館から“ジュラシックパーク”へと変貌を遂げたのである。
●後編へ続く→レイザーラモンHG 一発屋を変えた男(後編)