大矢博子の推し活読書クラブ
2021/09/15

風間俊介出演「鳩の撃退法」 [リアルと創作]が絡み合う複雑な物語を[一人称と三人称]で描かれた原作から読み解く

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 焦りや不安の中で小さな自分がもがいてる皆さんこんにちは。ジャニーズ出演ドラマ/映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回はミステリアスかざぽんが堪能できるこの映画だ!

■風間俊介、佐藤新(IMPACTors/ジャニーズJr.)、浜中文一・出演!「鳩の撃退法」(2021年、松竹)

 ここんとこバラエティづいてたかざぽんの本領発揮だぞ! 原作は佐藤正午作品の中でも傑作の呼び声が高い山田風太郎賞受賞作『鳩の撃退法』(小学館文庫)。物語の始まりは、幸地秀吉が具合の悪い妻に代わって娘を幼稚園に連れていく場面だ。その後、妻から第2子の妊娠を告げられたこと、その半日前にドーナツショップで出会った男と小説談義や家族談義をしたことなどが綴られる。

 この幸地秀吉を演じるのがかざぽんだ。彼が主人公なのかなと思って読んでいくと、そのドーナツショップで出会った男──元小説家で今はデリヘルの運転手をしている津田伸一こそが主人公であることがわかる。そして幸地秀吉がその夜、家族もろとも失踪してしまったことが語られるのである。

 それから1年と2ヶ月が経ったある日(映画では1ヶ月後)、津田の知り合いの古書店主が亡くなった。遺品として津田に遺されたキャリーバッグの中にはなんと3千万を超える現金が! だが、そこから抜いた1万円札を使ったところ、偽札だったことが判明する。そして裏社会のドン・倉田健次郎が偽札の行方とともに津田を探しているらしく……。

 というふうに粗筋をまとめると、幸地一家失踪事件と偽札事件というふたつの筋を持つサスペンス小説のように見える。それは間違いではないのだけれど、実はもうひとつ、この物語には「外枠」がある。縷々綴られてきたこれらの物語が途中で寸断され、「著者の津田伸一がこの物語を描いている場面」が登場するのだ。しかも、事実をそのまま書いているわけではないということまでほのめかされるのである。え、ちょ、ま、これ作中作なの?

 このメタ構造を、佐藤正午はエッセイの中で「パイ構造の一人称小説」と説明している。小説の中に語り手が書く小説が混じっている様式のもので、本人の言葉を引くと、

〈「語り手が、自分の目のとどかない場所で他人の身に起きた出来事を語る、想像や潤色をまじえていかにも物語を書くように語る」部分が三人称で書かれ、その三人称で書かれた部分が一人称で書かれた(いわゆるふつうの成り立ちの)部分にはさまれてパイ生地のように層をなしている小説、それが「パイ構造の一人称小説」です。〉 (佐藤正午『書くインタビュー(1)』小学館文庫)


イラスト・タテノカズヒロ

■どこまでリアルで、どこからが創作? メタ構造が面白い

 つまりリアル津田伸一のパートと、彼が書いた作中作のパートを見分けるには、津田の一人称で書かれているか、それとも三人称で書かれているかを見ればいいわけだ。ところが一人称パートの中でも津田は小説を書いていて、その文章が紹介されたりするからややこしい。というか、そのややこしさが楽しい。事実なのか、まったくの創作なのか、交錯する情報に翻弄される快感! しかもサスペンスの展開には驚くような筋が通っていて、もう最後まで読むと「ヤラレタ」感でいっぱいになる。

 しかしこの複雑な「パイ構造の一人称小説」をどう映像化するんだ? 映画に一人称も三人称もなかろうと思っていたのだが──話の途中で藤原竜也さん演じる「語り手の津田伸一」が登場し(その画面の中には作中作の津田も存在している)、「語り手の考え」を話し出すという方法には膝を打った。

 さらに映画では、土屋太鳳さん演じる編集者・鳥飼に津田が原稿を見せている場面はリアルであるというふうに作られている。その鳥飼が舞台となった町に行くと、本当に小説通りの街並みが存在していて、そこでリアルか創作かわからなくなるという酩酊感もちゃんと演出されていた。うまいことやるなあ。

 その上で、本当に鳥飼出演パート(原作の一人称パート)はすべてリアルなのか? そもそもなぜ津田は事実を創作に「作り直そう」と思ったのか? 小説を書くとはどういうことなのか? 小説は何のために書くのか? という問いを読者(観客)に投げかけるのである。映画のラストで、原作の文章がそのまま映し出されるという演出にはゾクッとしたぞ。「ぜんぶ小説だよ!」と笑っているようではないか。

 とはいえ、この映画が「正解」とは限らない。なぜなら原作をいくつか重要な部分で改変していたからだ。だからこれは、原作に込められた仕掛けにひとつの解釈を見せた例と言った方がいいかもしれない。

 たとえばかざぽんが柏手のように手を打つ場面。とても印象深い、そしてあれですべてが変わるという大事な場面だったが、原作にそんな場面はない。また、なぜ偽札が津田のもとに来たのか、時系列で解明されるのは原作では物語のラストだ。だからこそ「うわあ、そこがそういうふうに繋がっていたのか!」とパズルのピースがばちばちとはまっていく快感に震えたのだが、映画ではそこを原作より早い段階で見せた。え、先にやっちゃうの?

 なぜ謎解きを先にやったか。映画のラストを「あの場面」にするためだ。そして「あの場面」には原作と決定的な違いがある。その違いゆえに、映画は原作よりさらに謎めいた終わり方になっている。なるほど、これが『鳩の撃退法』の映像化か。

■原作でしか味わえない、文体の「おかしみ」に触れろ!

 もうひとつ、原作と映画の大きな違いについても書いておかねば。文庫上下巻の長さを2時間の映画にするため、かなりの登場人物やエピソードが落とされて、シンプルになっていた。原作はもっと多くの要素が複雑に絡み合っている。さらに原作はとにかく、脱線・寄り道・無駄話が異様に多い! そしてそれが面白い! だが脱線だと思ってるとめっちゃ重要な伏線が入ってたりするのだ。この「会話」が削ぎ落とされているのがもう、実にモッタイナイのである。

 佐藤正午の文体・文章・会話がもつ「おかしみ」は、かなり脚本に生かされていたし藤原竜也さんの早口な喋りがその「おかしみ」を相当に再現してはいたけれど、それでもやはり原作とはボリュームが違う。むしろ文章の「おかしみ」こそ、粗筋以上にこの小説の大きな魅力なのだ。文章に触れずして『鳩の撃退法』を知った気になってはいけない。断じていけない。ぜひとも原作をお読みいただきたい。

 なお、本書で佐藤正午ワールドに惹かれた人には、『5』(角川文庫)を薦めよう。これもパイ構造の話であるのに加えて、実は津田伸一が出てくるのだ。また、裏社会のドン・倉田健次郎は短編集『事の次第』(小学館文庫)に入っている「オール・アット・ワンス」「事の次第」「七分間」に登場する他、『正午派』(小学館)所収の「トラブル」と『ダンスホール』(光文社文庫)の表題作にもそれらしき人物が登場する。併せてどうぞ。

 おお、話の構造に文字数を使い過ぎてしまった。かざぽんですよかざぽん。いやもう、悩むし殴られるし泣くしうずくまるし、しかもどっか不気味だしという、ジャニーズ事務所の元祖サイコパス俳優ここにあり、である。何に驚いたってかざぽんに濡れ場がある! なのにラヴい雰囲気ゼロで不穏さしかないの、さすがかざぽんじゃね?(褒めてます)

 この物語における幸地秀吉は、失踪して表には出てこないのに物語を動かすキーマンという、極めて重要かつ難しい役だ。監督はパンフレットのインタビューで「秀吉はとても複雑なキャラクターで、ぜひ風間(俊介)さんにやってほしいなあと考えていたら、プロデューサー陣も候補に挙げていたので即決でした」と語っている。嬉しいなあ。

 浜中文ちゃんと佐藤新くん、登場は一瞬なのでファンはしっかりチェックしておくが吉だ。しかし刑事役の文ちゃんはいいとして、新くん、初めて出た映画が「女に貢がせた金でデリヘルを買う大学生」の役って……。

 ところで、失踪したかざぽんを探すならとりあえずディズニーランドに行ってみろ、と思ったのは私だけではないよね? これがメタ構造の物語なら、当然アリでしょ。

大矢博子
書評家。著書に「読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100」など。小学生でフォーリーブスにハマったのを機に、ジャニーズを見つめ続けて40年。現在は嵐のニノ担。

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