大矢博子の推し活読書クラブ
2022/12/07

目黒蓮出演「月の満ち欠け」純愛路線に特化した映画と、いろんな見方ができる原作 原作ではめめが演じるピュアな大学生の内心も描写

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 君の視線に何度も触れた皆さん、こんにちは。ジャニーズ出演ドラマ/映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は映画にドラマにと躍進著しいめめのこの映画だ!

■目黒蓮(Snow Man)・出演!「月の満ち欠け」(松竹・2022)

 と、いつものパターンで始まったこのコラムだけど、今回ばかりはSnow Manの曲ではなく「君の前前前世から僕は君を探しはじめた皆さん、こんにちは」と書きたい気持ちでいっぱいだ。まさにそういう話なんだもの!

 ということで「月の満ち欠け」である。いまや「Silent」(フジテレビ)や「舞いあがれ!」(NHK)で一気にその存在と演技力が日本じゅうに知れ渡っためめ(あ、目黒蓮くんのことです)の、初の映画単独出演作だ。原作は佐藤正午の直木賞受賞作『月の満ち欠け』(岩波文庫的)。……え? 「的」が気になる? 文庫で買った人は本を見てください。岩波文庫ではなく、岩波文庫的となってるから。

 これにはちょっと面白い経緯があって、岩波文庫ってのはもともと古典を中心に評価の定まった作品を収録してきたんですよ。現代日本文学の扱いもあるけど、その「現代」に入ってるのは夏目漱石とか森鴎外とかってレベルなのね。出版から数年の小説が岩波文庫入りするなんてことは、まずありえないわけ。

 でも『月の満ち欠け』の単行本は岩波書店から出た。直木賞までとっちゃった。文庫化の要望も強い。岩波現代文庫という別レーベルもあるけど、著者は岩波文庫の方を希望している(多分に無茶振りを面白がっていた感もある)。かといってこれまでの方針を覆して岩波文庫に入れるわけにはいかない──ということで版元がとった手段が、岩波文庫じゃないけど岩波文庫的な文庫にするよ、という斜め上のプランだったわけ。もうね、これほぼセルフパロディなのよ。岩波文庫的のマークとか装丁とかをよく見ると、岩波文庫にぎりぎり近づけながらも違う、てのがわかって面白いよ。

 おっと話がずれた。原作と映画のあらすじから説明しなくては──と、実はそれが難しい。映画も原作も、ホテルのカフェで男性と女性と少女が会う場面から始まるんだけど(厳密には映画はその前にちょっと別の場面が入る)、彼らが誰で、どういう関係で、何のために会っているかという説明がない。でも話が進むにつれて少しずつわかっていく。妙な会話の端々から「もしかして?」「そういうこと?」と次第に話がつながりだす。その過程こそがこの物語の醍醐味なので、本当はまったく前情報を入れずに読んで(観て)ほしいのだ。


イラスト・タテノカズヒロ

■哲彦視点の章で、彼の内面を味わえ!

 とはいえ、それでは「映画と原作の違いを紹介する」というこのコラム自体が成立しなくなる。なので、映画の公式サイトにも岩波文庫のウェブサイトにも書かれていることだけ言うね。これは、「瑠璃という女性が生まれ変わる物語」です。そしてめめは、生まれ変わる前の瑠璃の恋人の役です。うーん、これもかなり明かしすぎな気がするが。

 あらすじについてはここでやめておくけど、基本的には映画は原作に忠実だった。話の流れも、結末も、原作に則っている。ただ、ひとつだけ構成上の違いがあって、それは映画では「27年」のタイムスパンだったが原作では「33年」である、ということ。6年縮まったことで原作のある要素がまるまる一段階抜けているのだ。その抜けた部分を、映画は実にうまく再構成していた。原作はどうだったのか、ぜひ確認していただきたい。

 何より、ふたつ(もしくはそれ以上)の時代にまたがって演じなくてはならない役者さんたちにとっては、幅が広がれば広がるほどタイヘンだから。自分の娘が誰かの生まれ変わりだということが受け入れられない父親・小山内堅役を演じたのは大泉洋さんだったが、原作の小山内はすでに60歳を過ぎている。そして、めめが演じた三角哲彦も、原作ではすでに「恰幅のいい」壮年になっている。(ちなみに映画でめめが演じた哲彦は30代後半と大学生の2パターン)

 ということでめめ担さんたちにとっては、前髪を下ろした大学生のめめと、苦しみを経て大人になっためめの違いが、まずひとつの見どころ。でもそれ以上に、80年代の大学生を演じるめめの、不器用でピュアでまっすぐな思いをたっぷり堪能していただきたい。原作ではその章は哲彦の視点で綴られているのがポイントだ。初めての出会い、再会のシミュレーション、彼女のちょっとした一言にドギマギしたり深読みしたりという哲彦の内面がすべて彼自身の言葉で語られる。映画では佇まいや表情で魅せてくれためめだけど、あのときの脳内はこうだったんだ、てのがわかって興味深いよ。
 
 さらに、パンフレット掲載のめめのインタビューによれば、大学生の三角哲彦は20歳くらいの時の自分に似ていると思ったんだそうだ。同じ目にあえば、自分も同じような行動をとるとまで語っている。リアルめめだと思って映画を見て、原作を読めば、きっと感情移入の度合いも強まるはず。映画を観たラウールはめちゃくちゃ泣いてたらしいよ!

 と、映画単体としてはとても感動的だったんだけど、実はどうしても触れておきたい原作との違いがある。先程はタイムスパンの違いに触れたが、構成上の違いではなく、物語のどの部分を抽出するかという根本的な違いがあったのだ。

■純愛路線に特化した映画と、いろんな見方ができる原作

 映画は100%純愛ものとして作られていた。が、実は、私が最初にこの小説を読んだときには純愛小説として感動する一方で、これはサイコホラーでもあり、親子の物語でもあるよなあ、と思ったのである。

 だってさ、生まれ変わって前世の恋人に会いに行くって、それだけの年数が経ってたら相手はすでに新たな人生を歩んでる可能性もあるのに、そこに前世の恋人が出てきたらトラブルになる未来しか見えなくない? 瑠璃の想いは純愛というより執着ではないのかと、原作を読んだときには思わされたのよ。さらに瑠璃の生まれ変わりは小学生の段階で前世を自覚するので、ともすれば中年と小学生の恋愛になってしまう。それはなんつーか絵ヅラ的に非常にヤバい。実際、原作には(誰とは書かないが)ある男性が小児性愛者だと誤解される場面がある。

 親の気持ちも考えてみたい。自分の娘がある日突然、中身は他人だって言い出す。 自分が育ててきたあの子は誰だったの、ってことになるだろう。認めたくないだろう。じゃあ子どもの方は? 今の親のことをどう思ってるのか? そこに葛藤はないのか? 原作を読んだときにはそういった部分もすごく気になった。つまり原作は、ただ純愛にまっすぐ感動するだけではなく、いろんな観点から、いろんなひっかかりを持って、いろんな見方ができるように構成されているのだ。

 それを純愛映画に特化するための工夫が素晴らしかったのさ! 映画では生まれ変わった瑠璃が、自分は執念深いんじゃないか、哲彦さんにはもう別の恋人がいるかもしれない、と悩む場面がある。そうか、ちゃんとそこは考えてたのね、と安心させてくれた。さらに今のパパとママも大好きで、その両親との暮らしを大切にしたい、と語る場面もある。娘が他人の生まれ変わりだということを認めたくないという父親の懊悩もたっぷり描かれる。絵ヅラ的にどうなるか心配だった場面は、イメージ映像的な処理でとても美しく仕上げていた。また、最初の瑠璃が原作より不遇な設定にされていたのも、彼女に肩入れしやすくなったひとつの要因だ。

 なるほどなあ。原作の多面的なひっかかりを映画の中ですべてつぶして、ひとつの見方だけに観客が集中できるように道筋を作ったわけだ。それはそれでストレスなく話に入れてとても良かったのだけれど、逆に言えば、削ぎ落とされた見方や解釈がある、ということ。ぜひ原作を読んで他の見方を味わってほしい。佐藤正午の小説はそんなにストレートではないのだ(そこがいい)。このコラムで前に『鳩の撃退法』を扱ったが、あれほどテクニカルではないせよ、『月の満ち欠け』の原作も著者の小説巧者ぶりが味わえるぞ。

大矢博子
書評家。著書に「読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100」など。小学生でフォーリーブスにハマったのを機に、ジャニーズを見つめ続けて40年。現在は嵐のニノ担。

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