大矢博子の推し活読書クラブ
2023/03/01

玉森裕太出演「シャイロックの子供たち」銀行を舞台にした群像劇「ふと道を踏み外す瞬間は誰にでもある」原作、WOWOW版との違いも面白い

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 足早に過ぎる時間に振り回される皆さんこんにちは。ジャニーズ出演ドラマ/映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は玉ちゃんが初めて銀行員役に挑戦したこの映画だ!

■玉森裕太(Kis-My-Ft2)・出演!「シャイロックの子供たち」(松竹・2023)

 うっわ、変えてきたなあ! この作品は昨年WOWOWでもドラマ化され、主役の銀行員・西木をイノッチが、支店のエース・滝野をシゲが演じて、このコラムでも紹介した。あのときもかなり大胆に原作を変えてきたけど、今度はそれ以上だ。後半はほぼオリジナルストーリーだった。ていうか公式サイトにも「オリジナルストーリー」って書いてあったわ。

 とはいえ、ベースはちゃんと原作にあった。原作は池井戸潤の同名小説『シャイロックの子供たち』(文春文庫)。東京第一銀行長原支店で起きるさまざまな出来事を群像劇の形式で連作として描いた、2006年の作品だ。

 まず原作の構成から見ていこう。原作は第10話まであって、それぞれ異なる行員が視点人物を務める。映画に使われたのは現金100万円が紛失し、鞄から帯封が出てきた行員が疑われる第3話、成績不振に追い詰められた行員の様子がおかしくなる第4話、長原支店に検査部が乗り込んでくる第7話、新人の田端がとある不正に気づく第8話、そして〈犯人〉の事情が語られる第9話である。

 どれも一応は一話完結の体裁だが、第3話の100万円紛失事件がそれ以降の物語に通奏低音として存在する。WOWOWのドラマではそのミステリを中心に据えて、現金紛失の背後にある悪事を炙り出すというのを主眼にしていたし、原作もそうできたはずだ。けれど著者が敢えて主人公持ち回りの連作にしたのは、シャイロックの子供「たち」というタイトルが示す通り、ふと道を踏み外す瞬間は誰にでもある、というのを描くためだ。

 現金紛失の〈犯人〉だけではない。たとえば他の行員に濡れ衣を着せた別の〈犯人〉もそうだし、映画には使われなかったが部下に手をあげてしまった第1話の副支店長もそうだ。業務課エースの滝野も、検査部の黒田も、決してずっと清廉潔白だったわけではない。正義の側として描かれる西木ですら、原作第5話には彼が出世街道からはずれた経緯が描かれている。

 お金がほしい、認められたい、失敗を隠したい、あいつ嫌い……そんな思いに心が支配されたとき、目の前に現金があるのが銀行という場所なのだ。いや、銀行に限らない。追い詰められて、でもそれを打破する手段が目の前に転がっていたら? ばれなきゃいい、あとで返しておけばいい、そんな気持ちにならずにいられるか? それを原作では手を替え品を替え、さまざまなバリエーションで描いているのである。


イラスト・タテノカズヒロ

■群像劇のテイストはそのままに、構成を逆にした映画

 映画は構成を原作から大きく変えていたけれど、こと群像劇という点では原作に忠実だった。主人公は阿部サダヲ演じる西木のはずだが、映画は黒田(佐々木蔵之介)の話から始まる。また、前半の主役はほぼ佐藤隆太演じる滝野だった。現金紛失事件の犯人の濡れ衣を着せられた北川(上戸彩)や、不正を暴くきっかけになる田端(玉森裕太)、支店長の九条(柳葉敏郎)がフィーチャーされる場面も多い。

 特に黒田のエピソードから始まったのには驚いた。え、それ先に見せちゃうんだ、と。あの場面があるのは原作では第7話なのである(しかも映像ならではの伏線まで!)。WOWOWのドラマでも構成を変えて「え、それ先に見せちゃうんだ」と思わせる演出にしていたが、「先に見せちゃう」エピソードは映画とドラマで違っている。そのあたりも比べてみると面白い。

 いや、黒田のエピソードだけじゃない。滝野のエピソードも原作では終盤まで明かされないのに、映画では早々にその裏側まで見せてしまう。映画でも原作でも北川が現金紛失の咎を負わされかけるが、映画ではその時点で犯人は(観客には)もうわかっている。つまり原作ではそれを言うとネタバレになってしまう部分を、映画では先に出してしまうのだ。真相そのものを先に見せる箇所もあるし、後半のエピソードの一部を伏線として先に見せる箇所もある。構成が逆なのである。いやここ、詳しく言いたいんだけどなあ……原作のネタバレになっちゃうからぐっと我慢。

 だがこれにより、全員に事情や隠し事ややましい過去があるということが早々に告げられ、映画は著者が原作で意図していた群像劇の形になったと言える。原作では別の短編だったものが同時進行することで、それぞれのエピソードが有機的に結びついていくのにも唸った。西木が主役として奮闘するのは完全に映画オリジナルストーリーとなる後半から。この構成は、さまざまな人の「ふと道を踏みはずす瞬間」を見せているからに他ならない。

 WOWOWのドラマでは主軸となるストーリーは原作に則りつつも群像劇は犠牲にして、西木を主人公に現金紛失の背後を追うミステリに特化した。映画では逆に、原作のストーリーをかなり大幅に変えた(何といっても西木が失踪しない!)代わりに、群像劇の部分を活かした。同じ原作を映像化するのに、こんなに違うアプローチがあるのか、と驚かされる。だからメディアミックスは面白いんだよなあ。ドラマを見た人は、映画の西木をイノッチがやったら、映画の滝野をシゲがやったらと想像するのも楽しいよ。

■玉ちゃん演じる田端を原作でチェック!

 玉ちゃんが演じるのは「お客様二課」の若手、田端洋司。彼が顧客のところに持参する予定の現金から100万円が紛失し、映画の物語が動き出す。ここは原作では、営業終了後の行内で現金が足りないことが発覚するという形になっている。

 映画の田端は明るく元気で、けれど銀行内の黒い部分に触れてそれでいいのかと不満を抱いているという役どころだ。融資がうまくいかない理由として相場の状況を挙げると「相場のせいにするな」と怒鳴られ、小さな声で「じゃあ何のせいなんだよ」と呟く場面も。そんな職場に嫌気がさして、密かに外資系の銀行への転職活動を行っている。けれど基本的には真面目で爽やか、骨惜しみせずに働く「好青年」だ。

 これは原作の田端像とほぼ同じ。原作で田端が視点人物になるのは第8話「下町蜃気楼」、融資課の新人として登場する。新人なのでまだスレてない、だからこそ理不尽な職場にイラついている。頭ごなしにミスを責められ、言わなくてもいい反論をしてしまったり、上司を嘲笑う場面もあったり、果ては上司と言い争いになったり。言動や考え方は映画と原作で一致しているが、原作の方が生意気な印象が強い。

 原作では田端についてこんな説明がある。「ちょっとオタクっぽい雰囲気のひょろ長い長身は、中学受験から始まる競争を勝ち抜いてきた偏差値エリートの自信で反り返っている」──うわあ、玉ちゃんでイメージすると憎めない。オベンキョできる自信家玉ちゃん!

 かといって嫌なやつではない、というのがポイント。彼が上司に向かって口にしたことは、すべて正しいことなのだ。ただ正しさが歓迎されない場所にいるというだけの話。そして原作でも映画でも、田端には他の人物と明らかに異なる点がある。それは彼だけが、銀行マンとして後ろ暗いことがない、という点だ。だから他者の不正にどんどん踏み込んでいける。そのため(たとえ生意気でも)彼の章は読んでいて楽しいし、映画でも彼が登場する場面だけは爽やかな心地よさに一息つけるのである。誰もが黒い部分のあるこの映画(小説)で、彼の存在は癒やしなのである。

 映画よりも原作の方が田端と滝野の絡みは多い。ここはぜひ玉ちゃん田端とシゲ滝野で原作を味わってほしい。支店のエースという自信たっぷりのシゲと、大学までエリート街道を突き進んできた自信たっぷりの玉ちゃん、そして優しい上司の西木はもちろんイノッチで脳内再生すれば原作を読むのがぐんと楽しくなるぞ。いっそ長原支店の行員全員、ジャニーズで脳内キャスティングしてみては?

大矢博子
書評家。著書に「読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100」など。小学生でフォーリーブスにハマったのを機に、ジャニーズを見つめ続けて40年。現在は嵐のニノ担。

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