小橋めぐみ 性とか愛とか
2025/02/20

毎月のように海外旅行する人が「本は高いから、図書館で借りるだけ」と言っても…「小橋めぐみ」が自分を重ね合わせた西村賢太の作品 書評

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小橋めぐみ・評  西村賢太『疒の歌』

 毎月のように海外に旅行する方と本の話題になった。「本は好きだけど高いから、図書館で借りるだけ」とおっしゃる。「旅行代のほうがよっぽど……」と言いそうになったが、黙って話を合わせた。物の価値というのは、本当に人それぞれだ。

 小説は、父親が性犯罪者で、自身は中卒でフラフラ生きる十九歳の北町貫多が主人公。心機一転、これまでの日雇い労働を脱し、造園会社で職を得た彼は、新入社員の油井佐由加に惹かれ、なんとか自分を好きになってもらおうとする。

 常に生活費を計算しつつ孤独に生きる彼の楽しみは、酒と読書と自慰行為。そして時々のソープランドだ。

 日雇いの頃は「一回出てゆく毎に欠かさず千円ずつの“封筒貯金”」をし、「女体を買う目的の為のみの積み立て」に励んでいた貫多。新しい職場は居心地がよく、好きな女性もできて、公私とも落ち着いた日々が続く。

 だが、ある思いがふと頭をかすめる。以前の休日は、朝昼兼用の食事の後に映画を観て、「ファッションマッサージでの射精遊戯を加え、最後は飲酒で締めて」豪遊気分に浸っていた。こんなことで満足する自分をもし佐由加が知ったら、一体どう思うか、と。

 そこで、読書に身を入れようと、気になる純文学の作家、田中英光の作品を探しに古書店へ向かう。店で『田中英光全集』全十一巻を見つけるも、値段は一万八千円。今まで三冊百円の文庫の古本を買い求めてきた彼は「プロの女体の中に精を放つのと、全くの同額なのだ」と嘆息する。他にもないか探すと、全集のバラ売りがあった。値段は千五百円。二冊買うことにし、大金の三千円を得意げに払い、意気揚々と帰宅。日が暮れたことにも気づかぬほど憑かれたように読み耽る。

 とんでもないものを読んでしまった―。興奮の読書体験をした翌日、勢いづいた彼はしかし、酒席で大失態を演じ、うまく行きかけていた全てのことを失う。

 もちろん、佐由加も。

 大枚叩いて買った本が、人生を救ってくれるわけではない。人間がよくなるものでもない。けれど、読む価値がなかったはずはない。

 それでいいのだ。

 ロクでもない人生の中で、身銭を切って本を買い、夢中で読む貫多の姿に、いつしか自分を重ね合わせた。

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