小橋めぐみ 性とか愛とか
2025/09/11

家に帰ると「隣家の人妻」がいて……坂口安吾の「白痴」に感じたことを女優・小橋めぐみが語る(Bookレビュー)

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

小橋めぐみ・評 坂口安吾『白痴』

 坂口安吾は昭和21年発表の随筆「堕落論」で、友人達からの疎開の勧めを断り、「予想し得ぬ新世界への不思議な再生」への好奇心から東京にとどまったと書いた。同年には小説「白痴」も発表し、戦後文学の代表的作家として注目を浴びる。

 敗戦間近のある晩、27歳の映画の演出家、伊沢が家に帰ると、重い知的障害をもつ隣家の人妻が押し入れに隠れていた。女を一晩保護すると決めた伊沢は、寝床を二つ敷いて女を寝かせ、電灯を消す。1、2分もすると女は急に起き上がり、部屋の隅にうずくまる。

 寝床に戻しても、また同じことを繰り返してしまう。初めは自分に手出しされるのを恐れて逃げたのかと思ったが、そうではなかった。

 女は伊沢に手を出されず、自分が嫌われたのではないかと思い、恥ずかしさから布団を抜け出していたのだ。

「俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だった」

 伊沢は感動を覚え、奇妙な同居生活が始まる。

 だが、その思いも次の日には消え去る。変化したのは「一つの家に女の肉体がふえたということ」だけだ。

 爆撃のさなか、女と一緒に押し入れにもぐった伊沢は、女の顔に「理智も抑制も抵抗もない」「本能的な死への恐怖と死への苦悶」を見て「醜悪」だと嫌悪する。そして「戦争がたぶん女を殺すだろう」と、次の空襲を待ち望むようになる。

 女は、伊沢という人間を絶えず照射する存在だ。夜半、大空襲による猛火から逃げ惑う中、伊沢の「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな」という言葉に女が頷く。初めての意思疎通に伊沢は気が狂わんばかりに心を動かされる。

 ところが、生命の危機が去った後、鼾をかいて眠る女を「まったくこの女自体が豚そのものだ」と胸の内で吐き捨てる。呆気に取られるほどの変わりようだ。

 戦争は結局、女を殺さなかった。伊沢は女を連れて逃げ切り、殺させなかった。

 二人が運命共同体となった末に爆撃で女が落命していたら、戦争の悲惨さがより伝わったのかもしれない。

 東京にとどまった安吾が伝えようとしたのは、戦争でさえ奪えなかった何かだ。

 美しいもの。醜いもの。

 伊沢は女への小さな愛と激しい嫌悪の間で揺れ動くのだろう。生きている限り。

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

連載記事