小橋めぐみ 性とか愛とか
2025/11/18

「お肉の臭いがする」と夫の体を拒むようになった妻…“理由を語れない拒食”の物語に「小橋めぐみ」が重ねた過去とは(Bookレビュー)

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小橋めぐみ・評 ハン・ガン『菜食主義者』

 数か月で8キロ痩せた過去がある。ダイエットをしていたわけではない。痩せ始めた当初は喜んでいたが、次第に食が細くなり、人から心配されるほどになった。

 後になって、自分が傷ついたことに心が気づけなかったことが原因だと分かった。些細に見える出来事でも、時として人を深く蝕む。周りから「もっと食べたほうがいい」と言われるたび、苦しかった。家族や友人以外に状況を理解されるまでには時間がかかった。

 2024年のノーベル文学賞に輝いた韓国人作家、ハン・ガンの『菜食主義者』を読むと、その頃の感覚が鮮明に蘇る。主人公ヨンヘは「夢を見た」という理由で肉食を拒み、周囲を翻弄していく。彼女の夫の視点で描かれる第一部では、彼が「特別な魅力も短所もない」従順な伴侶を求めて結婚したことが明かされる。

だが、妻の「肉を拒む」という小さな意志によって従順さは脆くも崩れ去る。

 夫が最も気にしたのは、ヨンヘに拒まれるようになったことだ。彼女は「お肉の臭いがする」と夫の体を嫌悪し、不眠に苦しみながら「夢を見た」とだけ繰り返す。やがて家族との食事会で無理やり口に押し込まれた肉を吐き出した彼女は、父に殴られ、自傷へと追い込まれてしまう。そこには、彼女を理解しようとせず、ただ「普通」に引き戻そうとする周囲の暴力があった。

 ヨンヘは血と肉に染まる夢を見て、自らの中に潜む暴力を恐れ、肉を拒んだ。

それでもただ「夢を見た」としか言えなかった。一度聞いた悪夢の中身を、夫は嫌悪し、二度と耳を傾けようとはしなかった。

 理由を語れない拒食。周囲から向けられる、食べることへの圧力。言葉にできない心の痛みが、食べないこと、痩せることに現れてしまったヨンヘ。

 その姿は、かつての私と重なった。理解を求める気持ちさえ失ってしまった、あの頃と。

 読んでいる間中、胸が締めつけられた。とりわけ、ヨンヘを想う姉の視点で描かれる第三部は、心の奥底に冷たい雨が絶え間なく降り続くようだった。

 けれどもその雨は、いつしか浄化の雨へと変わっていった。私はずっと、心のその場所に降りそそぐ雨を待っていたのだと、読み終えてはじめて気づいた。

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