南沢奈央の読書日記
2024/11/29

日記の読書日記

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撮影:南沢奈央

 日記は人に読まれたくないものだ。ずっとそう思ってきた。
 むかしから、日々あったことを書くことは好きで、小学生の頃、両親と三人で交換日記をしていた。そのドラえもんのノートは未だに残っていて、つい先日実家の片づけをしていたときに見返したのだが、もはや日記というよりも、両親への手紙に近かった。「パパ、しごと、がんばってね」とか「ママ、またいっしょにあそぼうね」とか、伝えたい対象が明確だった。相手がいる中で書く、それこそが交換日記なのだと思う。
 誰にも見せられないような、個人的な日記を書き始めたのは高学年になった頃だった。鍵付きのノートに、学校であったこと、友達のこと、塾のこと、好きな子のことなど、人に話せない心の内を書いた。毎日ではなく、書きたいことがあるときに書いた。中学、高校とそれは続いていたと思う。大学に入ってからは形を変えて、三行日記を綴った。これらは、わたしが死んだときには、絶対に中を読まずに一緒に燃やしてくれと本気で思っている。
 自分が書いた言葉が、文章が、誰にも読まれないでいい、むしろ読まれたくないと思って書けていたのは、これが最後だったかもしれない。やがて、書く仕事をさせてもらうようになり、文章を書く上で自分の内側と向き合う時間が増え、日記はいつの間にかふわっと書くのをやめてしまった。思ったこと、残しておきたいことはメモに取る程度になってしまった。
 それがこの秋、日記を書く仕事が来た。岐阜県可児市に滞在しながらの舞台制作の様子を書いてほしい、という話だった。日記を書くことはできると思う。だけど、それを誰かに読まれるという前提で書けるのだろうかと懸念していた。きっと、日記という形をとるならば、ちゃんとした文章になってはいけない。というか、表現などを気にしていては、あっという間に疲れてしまうはず、毎日書き続けられるわけがない。なるべく、言葉を整理しない。読者を意識しない。思ったままに――。余計なことを書いてしまうかもしれないという心配はあったが、それは掲載される前の原稿チェックで削ればいいだけのこと。そう自分に言い聞かせて、読者の目を捨てて約2か月間書き続けた。
 その日記が、新潮社の文芸雑誌「波」の11月号・12月号に前篇・後篇に分けて掲載された。当初の予定よりもだいぶ分量が多くなってしまい、ページ数も増やしていただいたが、その上でカットされた部分も多かった。いつもだったら原稿の分量調整は自分で行うが、今回は担当の編集の方に丸投げをした。自分で編集してしまったら、それはもう日記ではなくなってしまうような気がしたのだ。
 ただ、人にカットされたらされたで、その原稿を見たときに「カットされるわたしの日常……」と思った。赤線を引いて消されているのを見て、なんだか泣いてしまいそうになって、ちゃんと確認することができなかった。ページ数も限られているし、編集も仕事なのだから致し方のないことだ。それでも日記の編集というのは、いやな仕事だっただろうなと思う。今度お会いしたら、「お疲れさまでした」と直接感謝を伝えたい。

 初めて、日記を書くという仕事をいただいて、「波」の編集長から「参考にぜひ」とお借りしたのが、山崎努さんの『俳優のノート』と伊丹十三さんの『「お葬式」日記』だった。もちろん、一作品が完成するまでの過程を興味深く読んだのだが、特におもしろかったのが、山崎さんがお酒の席に行かれた話や、「お葬式」撮影現場での天気という、もしかしたら本題ではない部分(間接的には関係してくるが)であった。その発見は大きく、わたし自身も日記で飲み会や天気の話、見た映画の話といったところを素直に、感じたまま書くように心がけた。
 それともう一つ、日記の参考……というつもりもなく、もともと好きで読んでいたのが、くどうれいんさんの『日記の練習』だ。NHK出版のWEBサイト「本がひらく」連載時から拝読していたが、今年の秋に書籍として出版された。わたしも日記を書き終えた今改めて、2023年4月~2024年3月までの1年間のくどうさんの日記、そして1か月ずつの、その日記もとにしたエッセイ「日記の本番」を、ゆっくりと味わいながら読んだ。
 前述の二冊と異なるのは、一つの作品の制作にまつわる日記ではなく、完全に日常の日記である、ということだ。それはとても、わたしが目指したところに近く、書きたい日は書きたいだけ書き、一文字もない日が続くこともある。〈毎日欠かさずに書こうと思ったことは一度もない〉と言い、くどうさん自身、日記は“続けるもの”という意識はまったくないのだという。そのスタンスがまずとても素敵で、その時の出来事や感情、体調にまつわるリズムや波も含め、言葉の数々、行間に表れていて、くどうさんの呼吸までも感じられるようなのだ。
 そして感性がとても好きだ。何気ない出来事に対して湧いた感覚をキャッチして、言葉に残している。それだけでとても特別なものになっている。「そうこなくっちゃ!」と送信したとか、おじさんのくしゃみが「action!!」と聞こえたとか、オンライン会議に「おじゃましまーす」と入ってくる人のことはギリギリいやであるとか、眠れない夜に「白ごま 黒ごま 違い」で検索したこととか……こういうことを書き残していける感性でいたい、と憧れる。
 くどうさんは、〈誰かが読んでくれると言う前提で日記を書くのが好き〉とのこと。と思ったら、「日記の本番」にあった〈なんでも書くと思うなよ〉という一文に笑ってしまった。実際読んでいると、どういう流れで誰に「そうこなくっちゃ!」と送ったのか、なんで眠れなかったのかなどはまったく説明されない。どちらもたった一行の日記だ。すべてを説明しないところが非常に個人的な記録=“日記”で、想像も湧きたてる。誰かに読まれる前提の日記が成立するのだな、と気づいたのだ。
 さらにこんな一節もある。〈書いていると毎日はおもしろくなる。けれど、わたしの身に起こるすべての喜びも悲しみも、書くために起きていることじゃない〉。決して“コンテンツ”にしない。自分のために生きて、自分のために日記を綴るのだ。
 
 日記とは奥深い。結果的に、この読書日記との向き合い方も見つめ直すきっかけになった。誰かに読んでもらう前提だけど、もっと自分のために書いてみてもいいかもしれない。

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