絶望名人に入門
撮影:南沢奈央
舞台の袖で、手汗を拭いながら、なんでこの仕事をやっているんだろう、と思うことがよくある。向いているか向いていないかで言ったら、向いていないと即答できる。人前に出ることも、注目されることも苦手なのだ。稽古をして本番を重ねても、緊張が襲い掛かる。今上演中の舞台「No.9-不滅の旋律-」では、緊張による手汗で手の皮が剥けてきてしまい、荒れてしまっているほどだ。
本番で失敗してしまうと、あぁなんて自分ってだめなんだろう……と落ち込む。そして同じ失敗はするまいと、さらに緊張が高まり縮こまってしまう。芝居に集中するよりも失敗しないことに意識が向いてしまい、どんどんと大切なものが抜け落ちていく。
実は今回もその悪い流れに乗りかけてしまった時期があった。初日が明けて2~3日のことだ。演出家の白井晃さんから日々いただくオーダーに応えたい一心で、「ここは強く言おう」とか「この台詞は2歩下がってから」とか、形ばかりに囚われていた。だが、その通りにできているはずなのに、どうもしっくりこない。役としてどこへ向かうべきだったっけと、方向を見失っていた。
そんな時、ちょっと話いいかなと白井さんが楽屋に来てくださった。そして、まさにわたしが迷走していることを指摘された。しっかりと見抜かれていたのだ。役のこと、表現のことなどを二人で30分くらい話した。表現の仕方のような“形”ではなく、“心”の部分に注力する――根本に立ち返ることができた。
もう一つ、わたしの背中を押してくれたのが、「失敗していいんだから」という言葉だった。ベテランのあの人も前はできなかったんだからとか、自分もこういう時こうだったと、うまくいかなかったエピソードを交えて。
もし、言われたのが「うまくいくよ」だったら、プレッシャーに押し潰されたかもしれない。でも「失敗していいよ」という、一見すると前向きではない言葉が、わたしの気持ちをとても楽にしてくれた。
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- 絶望名人カフカの人生論
- 価格:649円(税込)
ネガティブになってしまった時、ポジティブな言葉は受け入れられないことってある。綺麗事に感じてしまったり、自分には無理だろうと卑屈になってしまったり。さらにネガティブを加速させてしまう。
ネガティブな時には、ネガティブな言葉が寄り添ってくれる。自分だけじゃないんだと安心できて、気が楽になり、勇気をもらえる。
そのことにはっきりと気づくことができた一冊が、『絶望名人カフカの人生論』である。自身もカフカのネガティブすぎる言葉たちに救われてきたという頭木弘樹さんによる編訳だ。
ちなみにわたしがこの本と出会ったのは、蔦屋書店で展開されていた選書コーナー。性格診断・MBTIのタイプ別におすすめの本が紹介されていた。この選書テーマに興味を惹かれ、「提唱者タイプのあなたへ」を見ると、益田ミリさんの『週末、森で』という、わたしの人生のバイブルとも言える大好きな一冊が含まれていた。これは信頼できるぞ!と迷わず他2冊を購入。そのうちの一冊が、この『絶望名人カフカの人生論』だったのだ。はたしてこれも当たり、提唱者のわたしにしっかりと響いた。
小説『変身』で有名なカフカだが、生前は作家として認められず、普通のサラリーマンだったとは初めて知った。その他にも両親との仲はうまくいかず、結婚も仕事もできない。身体は虚弱で、不眠症と頭痛に悩まされる。自殺願望も持っていたそうだ。もちろん書いた文章にも満足できない。だからだろう、カフカの書いた長編小説はすべて未完だという。
そして小説以外の日記やノート、手紙に残った言葉を見ると、とことんネガティブ。「絶望名人」とは言い得て妙、ネガティブを通り越して常に絶望の底に立っているような人だった。
“石橋を叩いて渡る”の度を越した用心深さのある人を“石橋を叩きすぎて壊す”と言うが、カフカもまさにそう。リスクばかり考えて、結果行動しない。その点は共感できる。失敗したくない精神である。だがカフカはさらに先をいく。ミルクのコップすらも怖がる。なぜなら、〈そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、起きないとは限らないから〉。
〈神経質の雨がいつもぼくの上に降り注いでいます〉と自身のことを表現しているが、石橋を叩きすぎて壊すどころか、もう叩くだけ叩くけど、“渡る”という目的すらも、“渡ったからといってそれがどうなるのだ”という虚しさに変わり、やる気も失せてしまう。これがカフカだ。ここまでくると、さすがに笑ってしまう。
失敗したくないだけでなく、成功もしたくない。成功体験すらも受け入れられないのだ。〈成功が重なるにつれて、最後はそれだけ惨めになるにちがいないと、かたくなに信じていました〉。こんな言葉を、父親に対する手紙に綴っている。
極端に歪んだ思考だが、この歪んでしまった原因は父親であるとカフカは思っており、その恨みを書き連ねたそうだ。しかも、10日がかりで書き、その量、ドイツ語のペーパーバックで75ページ分にもなるという。この熱量は凄い。ネガティブが溢れてとまらなかったのだろう。
もっと凄いのは、彼女への手紙である。愛する彼女へのラブレターでもネガティブがとまらない。
〈将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません〉と言い、〈いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです〉と自己を表現する。婚約に至るほどの相手にもこんな内容を綴っていたのだ。この2度婚約し、結局2度とも破棄となってしまった女性に対して送った手紙は、全部で、ペーパーバック約800ページ分になるという……。
やがて34歳の時に結核になってしまうカフカだが、病気には絶望“しない”という名人っぷり。〈結核はひとつの武器〉として、結婚を諦め、仕事を休む。そうして悩みの種から解放されていく。親友からの、カフカへの手紙の言葉にも頷ける。〈君は君の不幸の中で幸福なのだ〉。いくら絶望していても、幸福だったのだろう。
ネガティブなのに、エネルギーが凄い。だから読んでいるこちらに、不思議と力が湧いてくる。明日から、手汗でしっとりした自分の手を握って笑えそうだ。