寒さのなかで
撮影:南沢奈央
夏には避暑地、冬には南の国へ――。わたしにはあまりこの考えがない。近年の異常な暑さはどうかと思うが、夏はできるだけ太陽を感じたいし、冬こそ北国へ行きたくなる。寒いのが苦手なくせに、雪のある場所へ行きたいし、寒さを感じたい。季節を味わいたいのだ。
読書でも同じだ。冬は冬の本を読みたい。春夏秋冬、季節ごとに読みたくなる本があるが、そのなかでも冬は特に多い気がする。
2024年最後の読書日記のタイトルは「雪で始まり、雪で終わる」だった。その言葉の通り、昨年の読書は、川端康成の『雪国』から始まって、締めくくりが短歌アンソロジー『雪のうた』だったのだ。その前年の年末あたりの読書日記の並びを見ても、こたつでの読書時間を綴ったものが続いていたり、あたたかさを感じるような本を手に取ったりしている。
そして今も、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』が傍らにある。また雪だ。
冬に冬の本を読みたくなる。「いま、この本を読みたくなる」。この理由はなんだろうか、とふと考える。
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- 雪のひとひら
- 価格:572円(税込)
読書は、体験だ。何か知識を入れる、物語を楽しむ以上の体験ができる。
本を開いたときの、紙の手触り、本の重み。コーヒーをお供にするのならば、コーヒーの苦みやあたたかさ。チョコの甘さ。そして周りの空気、匂い、街の音。五感を刺激されていることは、わざわざ意識するようなことでもない。気がつかないかもしれない。でもこのさまざまな感覚を刺激されながら本のなかへ入っていくことの、体験としての深さは、何物にも代えがたいものになっていると思う。
もちろん、それがはまらないこともある。あまり心に響かなかった――そんな本も時にはあるかもしれないけれど、もしかしたら本の内容云々だけではなく、そのときの環境や自分の心情など、タイミングが合わなかっただけ、ということもあるのではないか。
だからこそ、心から感動できたり、記憶に残ったりしていくような本に出会えることは、奇跡のようなことでもある。
読書から何を得ようとしているか、何を感じようとしているか、何を味わうとしているかは人それぞれだ。
わたしが冬に冬を感じたくて手に取った『雪のひとひら』も、夏に避暑地に行く人がいるように、“夏の暑さのなかで涼しさを感じたくて手に取った”というようなレビューも目にした。話題性や評価といったところから離れ、今、体が求めるままに本を手に取る。まことに本能的な読書だ。
そんなふうにして開いたこの本は、〈雪のひとひら〉が主人公だ。この世に生まれてから、成長、試練、出会い、結婚、出産、別れ、そして最期までの壮大な旅路、つまり一人の女性の人生が描かれていく。
何のために自分は生まれたのか。存在意義とは。自らの生の意味は――。美しいものに出会ったとき、苦しいとき、孤独なとき、感動したとき。心が揺れ動くたびに、彼女は自問自答する。
死を悟ったときですらも。〈こうして死すべくして生まれ、無に還るべくして長らえるにすぎないとすれば、感覚とは、正義とは、また美とは、はたして何ほどの意味をもつのか?〉と。
読んでいるこちらにも投げかけられる、大きな問い。わたしは本を閉じて、羽織ったコートのポケットに突っ込んで、外へ出た。空気は冷たくて清々しくて、でも空は薄暗い。雪でも生まれ落ちてきそうな気配。
この本を読んでいる最中に突然の別れとなった、親しい人を想う。
〈だれひとり、何ひとつとして無意味なものはありませんでした〉。
寒さのなかで、声に出して読んでみる。届け。