南沢奈央の読書日記
2025/03/07

かきがきた

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撮影:南沢奈央

 かきがきた。
 一瞬、回文になったかと思ったが違った。かき、とは、牡蠣でも、柿でもない(どちらも苦手だ)。垣でも、夏季でもない(つい数日前雪降っていましたね)。
 ちょうどくしゃみが出始めて、季節の移ろいを感じていた頃、我が家に届いたのだ。ネットで注文していた、花器が。
 わたしは花器が好きだ。そのもののデザインが気に入っている、というのもあるが、存在が好きなのだ。たとえ空だとしても、部屋に飾ったままにしている。そうすることで、さて何の花を活けようかと考えるだけで脳内はカラフルになり、街を歩いているときにも、植物に目がいくようになる。花器の存在で、どれだけわたしの心に彩りが生まれているか。
 我が家に新加入した花器に、さて何が合うかなと想像をしていたとき、目に入ったのが、『あかるい花束』だった。
 ちょうど1年前に出版されてから積読してしまっていた、岡本真帆さんの第2歌集だ。積読の中でも、ずっとよく見える場所に置いてあった一冊だったのに、今までなぜか手を伸ばすことはなかった。だけどこのタイミングで、まるでピンク色に発光しているかのような表紙が目に飛びこんできた。そして声が聞こえたような気がした。ドウゾ、テニトツテクダサイ。ハルデスヨ、と。
 そうして開いたこの本には、さまざまな記憶の蓋やそれぞれの心の扉を開いて、丁寧に出会わせてくれるような歌たちが並んでいた。

 ちょうど確定申告のための領収書整理で慌ただしかった日々には、〈コンビニのビールのきんぎん九百円 短歌になれば経費で落ちる〉という一首にくすりと笑う。ちゃんと短歌にしているじゃないか。本当に経費で落としたのかな。あれ、じゃあこの文章を書いているわたしは、本はもちろんのこと、新しい花器も……、ん? じゃあ“コンビニのきんぎん”もいける? なんて、自分勝手な論理に思わず苦笑い。
 岡本さんの短歌は、考えることが多くて、頭がいっぱいいっぱいになってしまっているときこそ、効能がある気がする。やることが目白押しで、なにかに急かされているような、心の焦りを感じているとき、時間をぐっと遅くしてくれる。1小節8拍子で進んでいたところを、2拍子で感じさせてくれる、あの感じ。もちろん流れる時間は変わらないのに、その時間の進み方において心に余裕が生まれる。
〈今いちばんいいたいことを真剣に考えてたら寝ちゃってました〉と言われると、なんだろう、自分が今悩んでいることもちっぽけかもと思える。“いちばんいいたいこと”、“真剣”、“考えてた”からの、呑気な寝落ち……。もしかしたら、一番言いたいことでも真剣でもなかったかもしれない。言いたいことというのがもし、ネガティブなことだとしたら、そんな大ごとにすることでもないのかもしれない、と思わせてくれる。考えて悩んで、頭をひねることも大切だけど、一回寝ちゃうっていうのもアリなんじゃない? 起きたら、新鮮な目で物事を見ることができるはず――。笑い話のようでありながら、励まされる一首だ。

 表紙の色から、勝手に春をイメージしていたが、夏、特に初夏の歌が多い印象だった。さらに、岡本さんが好きなのであろう、ビールと競馬、そして花、花瓶。
〈あなたと過ごした日々は小さな旅だった 空っぽの花器の美しいこと〉
〈そうか風だったんだほしかったのは ひかり花瓶をはみだしていく〉
〈窓際に置いた花瓶のそのままの姿かたちをしばらく愛でた〉
 家に来た新しい花器は、もうしばらく空のままで愛でてみようと思う。はてこの春、わたしの心にどんな色彩が生まれるだろう。

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