大阪万博の350億円リングが話題である。個人の財産で建てるならともかく、税金を投入してまで、という意見も多い。万博では、毎年このように良くも悪くも大きな話題になるシンボルがある。その流れは第一回のロンドン万博で大きな話題になった、総計29万枚以上のガラスを使用した会場、水晶宮(クリスタル・パレス)」から始まった。
実はこの水晶宮、当時のヴィクトリア女王の夫アルバート公が、さる貴族の屋敷に感銘を受けて作成したもの。それがデヴォンシャ公爵家の「チャッツワース・ハウス」である。莫大な借金を抱えながら築きあげた“英国で最も美しい館”に隠されたドラマとは――英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。
首相に就任した第4代公爵
公爵となったデヴォンシャ家が所有するチャッツワース・ハウスはロンドンの邸宅(デヴォンシャ・ハウス)も、やがてイギリス社交界の中心地へと位置づけられていった。
イギリスの王家もハノーヴァー家に代わった18世紀前半に登場したのが、第4代公爵ウィリアム(1720~1764)である。21歳で庶民院議員に当選し、一躍若手政治家の中心的な存在となった彼は、父から公爵を引き継いだ翌年、1756年になんと首相にまでのぼりつめる。当時36歳での首相就任は史上最年少、現在でも歴代4位の年少記録である。ただし、その年から始まった7年戦争(1756~63年)に関わるイギリス政治の混乱により、政権はわずか7カ月で崩壊してしまう。
奔放な夫婦生活を送った5代公
44歳で急逝した4代公のあとに5代公となったウィリアム(1748~1811)は、父とは違って政治には関心を示さなかった。生涯で3度も入閣を打診されていながら、すべて断ったほどである。
その5代公が関心を示したのは社交生活のほうだった。25歳のときに初代スペンサ伯爵の長女ジョージアナ(1757~1806)と結婚し、ロンドンの邸宅はホイッグ系(のちの自由党)の政治家たちのたまり場にもなっていく。
やがて公爵夫人は夫以外の男性と恋に落ちた。彼女より7歳若いホイッグの有望政治家チャールズ・グレイ。のちに首相となる傑物だった(彼については、このあとに詳述する)。ついに2人のあいだには女子まで誕生したが、一方の5代公にも愛人がおり、2人の婚外子もいたのである。この夫妻は、当時にはよく見られたような奔放な生活を繰り広げていたのかもしれない。
しかしジョージアナにはさらなる悪癖が見られた。ギャンブルである。夫と結婚する前から社交界の華として知られ、パリではかのマリ・アントワネットとも交遊した公爵夫人は48歳で亡くなったあと、公爵家に59万ポンドもの負債を残したとされている。
チャッツワース・ハウスに造られた巨大温室
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- 教養としてのイギリス貴族入門
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さらに公爵家が負債を抱える原因を作ったのが2人の長男で、1811年に家督を継いだ第6代公ウィリアム(1790~1858)だった。彼は生涯独身を貫き、愛人をつくるようなこともなかったが、唯一のめりこんだことがある。それがチャッツワース・ハウスだった。先述の通り、この屋敷が一族の居城となって300年近く経過していたが、6代公はここを自身の趣味によって大改修していく。
特に彼が手間暇をかけたのが庭園であった。そのために雇い入れたジョゼフ・パクストン(1803~1865)という庭師は稀代の芸術家でもあり、公爵は彼に長さ84メートル、幅37メートルの巨大な温室を造らせた。
1843年に屋敷を訪れてこれに大変な感銘を受けたのが、ときのヴィクトリア女王の夫アルバート公であった。この8年後、アルバートはパクストンとともにさらに巨大な温室型の建物をロンドンのハイドパークに建設した。これこそが第1回ロンドン万国博覧会のメイン会場となった「水晶宮(クリスタル・パレス)」であった。総計29万枚以上のガラスを使用した会場は、5カ月で600万人にも達した入場客すべての度肝を抜いたとされる。
岩倉使節団を圧倒した巨大噴水
さらに6代公が贅を尽くしてチャッツワースに造らせたのが巨大噴水だった。女王夫妻が来訪した直後、翌年(1844年)に屋敷を訪れる予定となっていたロシア皇帝ニコライ1世を喜ばすため、高さ90メートルも水が上がる大噴水を設営させたのである。
しかしこうした大事業で、公爵の借財は瞬く間に膨らんだ。1858年に彼が亡くなったとき、デヴォンシャ公爵家には100万ポンド以上もの借金がのしかかっていたとされる。これを請け負わされたのが遠縁にあたり、7代公爵を引き継いだウィリアム(1808~1891)だった。
彼は公爵になるや、イングランド北西部のバロー(=イン=ファーネス)で製鉄業や造船業にも莫大な投資をおこない、1874年にはついに30万ポンドの年収を手にする。3万ポンドの年収があれば大貴族といわれた当時にあって、それは公爵がイギリスで最も富裕な人物と言わしめたほどの莫大な富であった。
ちょうどこの頃チャッツワース・ハウスを訪れた日本人一行がいた。岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団である。1872年10月に同地を訪問した彼らは巨大な屋敷に圧倒されるとともに、大噴水にも仰天した。「此跳上ノ猛ナル、水晶宮ノ跳水モ及ハサル所ナリ」と、使節団の一員だった久米邦武が記している(『特命全権大使 米欧回覧実記』岩波文庫、1978年、314頁)。
しかし1870年代後半には、イギリスをも襲った大不況によって公爵家の年収は再び激減し、1891年の7代公の没時に公爵家の負債はなんと200万ポンドにまで膨れ上がっていた。
株式投資で一山当てた8代公
これを引き継いだのが息子のスペンサ・コンプトン(1833~1908)である。父とは異なり、政界で活躍していた8代公爵は32歳で陸軍大臣に抜擢され、41歳の時には自由党庶民院指導者にまでのぼりつめていた。しかし、ときの大政治家ウィリアム・グラッドストンに翻弄され、彼がアイルランドに自治権を与える政策を進めると、これに反対して自由党を飛び出し、自由統一党を結成して、やがて保守党に合流する。1882年に、長弟でアイルランド担当相を務めていたフレデリックがダブリンで民族主義者に暗殺されたことも影響していた。
晩年は、第3代ソールズベリ侯爵の保守党内閣で枢密院議長として政界の重鎮となった8代公は、所領経営の才にも長けていた。公爵はアイルランドに保有していた土地を売却し、その利益を株式市場に投資した。これが大当たりとなって、父が残した200万ポンドもの借金を50万ポンドにまで減らすことに成功する。
8代公は59歳まで結婚することはなかったが、若い頃から恋人はいた。ただし人妻だったのだ。お相手はマンチェスタ公爵夫人ルイーザ。これまた社交界では「公然たる秘密」とされる仲だった。1890年にマンチェスタ公が亡くなり、2年後に未亡人は晴れてデヴォンシャ公爵と結ばれた。彼女は「2重の公爵夫人(double Duchess)」などとも揶揄された。
財団化によって今も健在
残念ながら子宝に恵まれなかった8代公爵のあとは、彼の末弟エドワードの息子であるヴィクター(1868~1938)が9代公として引き継いだ。8代公爵の才覚のおかげで、公爵家は18万6000エーカーにも及ぶ土地を保有していた。9代公は第一次世界大戦(1914~18年)中にカナダ総督に着任し、このとき副官として彼を支えたのが若きハロルド・マクミラン大尉、のちの首相である。彼は総督に気に入られ、やがて彼の娘レディ・ドロシーと結婚する。
第一次大戦後には植民地大臣なども務めた9代公爵であったが、この頃から大土地所有者に対する相続税率が大幅に上昇していく。1938年に彼が亡くなると、公爵家はこれまでのように広大な自宅を維持できなくなった。何しろチャッツワース・ハウスが建つ敷地だけで3万5000エーカー(約140平方キロ)にも及ぶのだ。それは現在の日本にたとえると、東京23区のうち9区(千代田・中央・港・新宿・文京・台東・渋谷・品川・墨田)をあわせた広さ(約133平方キロ)より大きいのである。
1946年から屋敷はチャッツワース財団の管理下に置かれることとなった。そして11代公爵アンドリューの妻デボラ(1920~2014)というこれまた「女傑」を得て、公爵家の財政は再建されることとなる。2014年に彼女が94歳で大往生を遂げたとき、600人以上にも及ぶ召使いや従業員らが公爵夫人の野辺送りに立った。それはいにしえの公爵家の栄光の名残りにも思われた。
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