男子11人、女子4人の大家族で愛人もいた貴族とは? 紅茶アールグレイの由来になった伯爵家のお家事情

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首相として数々の政治改革を実現した2代伯(左)。後代、グレイ伯爵家の分家からは、11年にわたって外相を務めたエドワード・グレイを輩出した

 イギリス紅茶の代名詞のひとつとして日本にも深く定着している「アールグレイ」。実はこの名前はイギリスの有名な貴族に由来している。その貴族こそが、「グレイ伯爵(Earl Grey)」である。

 優雅に彩られたグレイ一家だが、その2代目チャールズは妻メアリとの間に15人の子供を授かった。のちに彼らは英国の政治史の中でも非常に重要な立ち位置に就き、その子孫も一族の繁栄に貢献した。

 奴隷制度廃止に尽力したヘンリ、かの近衛文麿が感銘を受けたジョージ――まさに「ノブレス・オブリージュ」を体現した一族は、どのようにして歴史を築き上げたのか。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。

「イギリス紅茶の代名詞」となった貴族

 グレイの一族は、14世紀にイングランド北東端ノーサンバーランドに中規模な所領を構える地主貴族に端を発している。

 所領の経営に成功し、准男爵(バロネット)に叙せられたサー・ヘンリ(1691~1749)の4男チャールズ(1729~1807)は、父が買い取ってくれた陸軍少尉の位から軍人としての経歴(キャリア)を始めていく。

 当時は陸軍の中佐から少尉までの位は、一部は「売官制」によって取り引きされていた。その陸軍でチャールズはペティ・フィッツモリス大尉という人物と懇意になる。のちの首相シェルバーン伯爵である。このシェルバーンが政権を握ると、彼の縁故からアメリカ独立戦争に司令官として赴任し、戦争には敗れたものの、チャールズは大将にまで昇進し、1806年にはついにグレイ伯爵に叙せられた。

「稀代の名演説家」の2代伯

 しかし彼の叙爵は、当時、政界の大立者となっていた長子チャールズ(1764~1845)の意向が働いていたとされる。伯爵となった翌年、父の死で彼は第2代グレイ伯爵となる。そして彼こそが「アールグレイ」の名前の由来とされる貴族なのである。

 イートン校でラテン語と英語を徹底的に学んだ2代伯は、このときのちに「稀代の名演説家」と呼ばれる素養を培ったとされる。1786年に庶民院議員となり、ときの大宰相ウィリアム・ピット(小ピット)の政策を痛烈に批判した名演説で、並み居る議員たちに鮮烈な印象を与えてデビューを果たした。

 1794年にメアリと結婚し、2人はなんと男子11人、女子4人という子宝に恵まれる。ところがその陰で、グレイには愛人もいたのだ。既に何度も登場している、第5代デヴォンシャ公爵の夫人ジョージアナである。彼女の影響もあり、グレイはチャールズ・ジェームズ・フォックス率いるホイッグ(改革派:のちの自由党)に所属することとなった。

首相として政治改革を実現

 18世紀後半からのイギリス政治は、ピット対フォックスの熾烈な闘争が中心となった。しかしピットが亡くなり、1806年にグレイは連立政権の海軍大臣に就任する。ところがその直後に今度はフォックスが急逝し、政権も崩壊。イギリス政治は混迷期に突入する。1807年から伯爵として貴族院に移ったグレイは、のちに王と離婚騒動で対立する王妃キャロラインを擁護し、国王ジョージ4世から嫌われ、これで首相の芽もなくなったかに見えていた。

 しかし1830年に国王が亡くなり、弟のウィリアム4世が即位するや、グレイは長年の親友である新国王から首相に任命される。ここで彼自身の長年の夢であった選挙法改正(下層中産階級への選挙権の拡大)、工場法の改正、救貧政策の改革など、グレイ政権は矢継ぎ早に次々と画期的な政治改革を実現していく。

 実は「アールグレイ」という紅茶の名称が、どういう経緯でつけられたのかは定かではない。あるいは、このグレイ伯爵とは関係がないとも言われている。しかし偉大なる改革者としてのグレイの名声がこの独特のフレーバーを放つ紅茶にふさわしいと、当時の人々が想像してつけたとしても不思議ではない。それほどまでにグレイの名声は絶大だった。

南アフリカ会社で築いた莫大な財産

 彼を継いだ3代目の伯爵ヘンリ(1802~1894)は、父の政権で植民地政務次官に就き、帝国全土での奴隷制度廃止に尽力するなどした。以後は植民地大臣として活躍もしたが、1850年代半ばからは要職に就かず、所領経営などに乗り出していく。おかげで1万6000エーカーの土地と年収2万3000ポンドを得ていくが、農場の修繕費に20万ポンドもつぎ込み、逆に足が出てしまう結果となった。

 世継ぎに恵まれなかった3代伯のあとは、2代伯の次男チャールズ(1804~1870)の家に伯爵位は継承されていく。このチャールズは陸軍軍人となり、アルバート公、次いでその妻のヴィクトリア女王の秘書官を務め、君主の秘書官という役職を今日(こんにち)にまで続くかたちで確立した功労者となった。

 4代伯爵となったのはこのチャールズの長男アルバート(1851~1917)だった。庶民院議員となり南アフリカ問題に深く関わった彼は、やがてダイヤモンド鉱業の実力者セシル・ローズの片腕となる。一時は「ローズの番頭」などとも揶揄されたが、このとき得られた植民地行政の知識が、1904年からカナダ総督となった彼には大いに役立ったとされる。伯父の3代伯は6600ポンド強の遺産しか残せなかったのに、あとを継いだ4代伯の遺産はなんと46万ポンドにも及んだ。南アフリカ会社の大株主だった際の利益なのか。

分家から内務大臣と外務大臣を輩出

 イギリス政治に偉大な足跡を残した「グレイ」は、2代伯爵のあとには、むしろ分家のほうに現れたのかもしれない。

 2代伯チャールズのすぐ下の弟が、海軍大佐だったサー・ジョージ・グレイという准男爵である。その長男ジョージ(1799~1882)は政治家となり、偉大なる伯父と同じホイッグに属した。1846~66年の20年間のうちの大半の時期、彼は内務大臣を務めている。このときにイギリス内務省は近代的な官僚組織として再編された。まさにサー・ジョージは近代内務省の育ての親ともいうべき存在だった。彼のあとに3代目の准男爵を継いだのが孫のエドワード(1862~1933)である。12歳のときに父を失ったエドワードは、祖父から「高貴なるものの責務(ノブレス・オブリージュ)をしっかりとたたき込まれた少年だった。

 20歳でその祖父から准男爵を継承し、23歳のときに庶民院議員に当選したエドワードは、30歳で外務政務次官に抜擢される。これ以後は、外交のエキスパートとしての彼の政治家人生が本格的に始まる。1905年、43歳のときにはついに自由党政権の外務大臣となり、フランスやロシアとの協調関係を補強した。しかし時代は風雲急を告げる事態へと変わっていく。

幣原や近衛も尊敬したグレイ外相

 1910年代に入り、バルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの勢力圏争いが激化していた。グレイ外相はロンドンで国際会議を開き、事態の収拾に乗り出した。

 しかし1914年6月28日のサライェヴォ事件で、皇位継承者を暗殺されたオーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけていく。それぞれの背後にドイツとロシアがつき、最終的にはイギリスもドイツに宣戦布告せざるを得なくなっていく。その重責を議会で背負わされたのがグレイ外相だった。8月3日の夕方に議会で演説を終えた彼は、外相執務室に戻り、窓の外を眺めながらこうつぶやいた。「ヨーロッパの街という街から灯(あかり)が消えていく。そして我々は生涯それを見ることはないだろう」。翌日イギリスは大戦に突入した。

 グレイは1916年末に辞任するまで11年の長きにわたり外相を務めた。それは連続在任記録としては最長のものである。外相から退く5カ月ほど前に、彼はグレイ子爵(Viscount Grey of Fallodon)に叙せられた。

 このグレイを尊敬してやまない日本の政治家がいた。ひとりは戦後に首相を務めた外交官出身の幣原喜重郎。彼はグレイが外相に就くにあたり、所有していた株式のすべてを売却した彼の外交官としての潔さに感服した。もうひとりが近衛文麿。公卿の最高峰に位置する家の出である彼は、イギリスの政治家のなかで学識教養ともに高く、その生活も非常に雅趣に富んでいるグレイの姿に感銘を受けていた。

 グレイは政治一辺倒ではなく、田舎でのフライ・フィッシング(毛針釣り)や野鳥の観察もプロ並みの趣味人だったのだ。こうした趣味人の血統は、あるいは曾祖父の兄「アールグレイ」から引き継いだのかもしれない。

君塚直隆
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。

新潮社
2024年4月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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