教養としてのイギリス貴族入門
2023/03/17

アル中男と離婚して、アスター子爵の御曹司と電撃的な恋に落ちた女性の生涯 イギリス貴族の栄枯盛衰(6)

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク


ウォルドルフ(左)とナンシー(右)の2代アスター子爵夫妻。カズオ・イシグロ『日の名残り』のモデルとされる

日本でも大人気のTVドラマ「ダウントン・アビー」では、広大な屋敷で執事や召使いに囲まれ優雅に暮らすイギリス貴族が登場する。史実を背景に描かれた作品という触れ込みだが、実際の貴族はどのように生活をし、家系を守ってきたのか? 本記事では、『貴族とは何か』の著者である君塚直隆さんが、実在するイギリス貴族の中から代表的な名家を取り上げ、その栄枯盛衰を解説します。第6回は、アメリカ出身の家系で、イギリス史上初の女性議員を輩出した「アスター子爵家」――。

アメリカの大富豪に生まれて

「ウィンストン! もしあなたが私の夫だったら、あなたのコーヒーに毒を入れてやるわ!」

「ナンシー! もし私があなたの夫だったら、迷わずそれを飲むね!」――

 このすさまじい会話は、さる貴族の豪邸の朝食の席で繰り広げられたものとされている。しかし実際にはこれはよくできた「作り話」とも言われる。会話の主は、のちのイギリスの大宰相ウィンストン・チャーチルと、この館の女主(ホステス)であるナンシー・アスター。かの言葉の達人チャーチルを向こうに回し、これだけの会話を交わせるような「女傑」を生み出した「アスター子爵(Viscount Astor)」家とは、いったいどのような貴族だったのだろうか。

 実はアスター家の開祖はアメリカ人だった。ドイツから合衆国へと移民した一族の先祖が、ジョン・ジェイコブ(1822~1890)の時代に不動産投資と開発で巨万の富を得た。そのひとり息子がウィリアム・ウォルドルフ(1848~1919)。父の事業を手伝い、現在もニューヨーク屈指の最高級ホテルとして君臨する「ウォルドルフ・アストリア」の基盤を築く傍ら、連邦上院議員やイタリア公使なども務めた彼は、1890年に父が亡くなると、なんと1億ドルを超える巨額の遺産を受け継いだ。

「新聞男爵」から子爵へ

 ところが彼はそのまま家族を連れてイギリスへと渡ってしまう。彼はアメリカの浅薄な文化をバカにし、ヨーロッパにこそ真の文明があると考えていた。ロンドンで生活した後、1893年にはイングランド南東部バッキンガムシャーのマーロウの近郊に「クリヴデン・ハウス」という邸宅を購入した。

 さらにこの頃、アスターが買収したのが『ペル・メル・ガゼット』という夕刊紙だった。保守党支持者のアスターは、元々は自由党を支持する同紙を保守党系の有力紙に替えてしまった。さらに長男ウォルドルフ(1879~1952)からの助言を受けて、アスターは日曜紙『オブザーヴァー』まで買収した。ガゼットはやがて売却してしまったアスターだが、『オブザーヴァー』は息子と稀代の名編集長ジェームズ・ガーヴィンに任せ、一流紙の仲間入りを果たさせている。

 20世紀初頭のイギリスは、新聞や雑誌の所有者(オーナー)が政治に大きな影響力を及ぼす時代になっていた。彼らはやがて叙勲や果ては爵位まで受け、「新聞男爵(Press Baron)」などと揶揄されていく。アスターもご多分に漏れず、1916年に男爵、そして翌17年には子爵に叙せられた。ところがこの叙爵が息子との決裂をもたらすとは想像だにしていなかった。

米国人女性ナンシーと結婚

 アメリカの粗野な生活を嫌ったアスター子爵の方針もあり、イギリスへ渡った2人の息子はそろってイートン校からオクスフォード大学に進学し、ジェントルマンとしての教育をほどこされた。父の希望通り、兄弟はスポーツマンとしても、さらには政治家としても大成しつつあった。次男のジョン・ジェイコブ(1886~1971)など、1908年のロンドン・オリンピックのラケッツ(スカッシュに似た競技)のダブルスで金、シングルスで銅メダルを獲得した。

 長男のウォルドルフは1905年にアメリカを旅したとき、ある女性と電撃的な恋に落ちる。それが冒頭に登場したナンシー(1879~1964)だった。ウォルドルフと同い年の彼女はヴァージニア州で生まれ、18歳で結婚したものの、アルコールに溺れた夫の家庭内暴力が原因で離婚していた。2人は出会うなり意気投合し、1906年5月にイギリスで結婚した。父アスターは息子の結婚祝いに、クリヴデン・ハウスをそっくり贈った。かわりに彼自身はイングランド南部のケントにヒーヴァー城を購入し、以後はそこで生活を続ける。ウォルドルフ夫妻はやがて4男1女を授かることとなった。

子爵継承と政治生命の終わり

 結婚から4年後の1910年の総選挙で、ウォルドルフはイングランド南西部プリマスの選挙区から立候補し、庶民院議員に当選する。政治活動も軌道に乗り始めたその矢先に、彼の出鼻をくじいたのが父の受爵だった。父もすでに70歳に近く体調も思わしくない。もし亡くなればウォルドルフ自身が爵位を継ぐことになる。そうなればウォルドルフは貴族院へ移籍しなければならない。1911年に成立した議会法により、いまや貴族院は権限も縮小され、野心のある政治家が活躍する舞台は庶民院であった。自分に何の相談もなく爵位を受けた父と子の間では、父が亡くなるまでわだかまりが消えることはなかったとされる。

 やがてイギリスは第一次世界大戦(1914~18年)に突入した。1916年から首相として政権を率いたデイヴィッド・ロイド=ジョージの側近中の側近となったのがウォルドルフだった。首相は王権と議会を蔑(ないがし)ろにしたばかりか、閣僚にもろくに意見を訊かず、自身のブレーンというべき閣外の協力者をダウニング街10番地の首相官邸に集め、その中庭で会議を開いて彼らの意見を徴(ちょう)していた。ウォルドルフもそのメンバーであった。1919年にウォルドルフは第2代子爵となった。事前になんとか爵位を継がなくて済む手段を法的に講じていたが、すべて徒労に終わった。これでウォルドルフの政治生命は終わったといわれる。

イギリス史上初の女性議員

 彼が地盤を築き上げたプリマスの選挙区は、妻ナンシーが受け継ぐこととなった。1919年の選挙で彼女は当選し、ここにイギリス史上初めての女性議員が誕生した。元々彼女は婦人参政権などには関心がなく、その後、次々と当選してきた女性議員らとの関係もぎくしゃくしたものだった。しかしやがて彼女自身も「女性の権利」を主張することに目覚め、議会内における女性運動の指導者の1人となっていく。

 さらに夫妻は、1930年代に入るとそろってヨーロッパを歴訪した。その旅程でアドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンとも会見している。夫妻はナチスの独裁体制には心底批判的だったが、大戦後に敗戦国ドイツに過酷なまでの賠償や領土を要求したイギリスの政策には後ろめたさを感じていた。

 2人の屋敷は、イギリスの主要な政治家やチャールズ・チャップリン、マハトマ・ガンディーなどの世界的著名人も集う社交場となっていたが、やがて対ドイツ宥和政策を進めるネヴィル・チェンバレン首相やハリファクス外相が、駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップらと極秘の会合を持つ場にもなっていく。カズオ・イシグロの名作『日の名残り』(ハヤカワepi文庫)で描かれた「ダーリントン伯爵」のモデルのひとつが、まさにアスター子爵夫妻だったのである。

 しかしそのドイツと第二次世界大戦(1939~45年)に突入し、プリマスは空爆の被害に遭った。いまや事実上政界を引退していたアスター子爵は、プリマス再建のために尽力していく。そして1945年に体調を崩した子爵は、妻ナンシーに政界からの引退を要請し、彼女は泣く泣くそれに従う。政治に興味を持っていた彼女は、これ以後、夫が亡くなるまでこのときの「恨み」を忘れることはなかった。1952年に第2代子爵は亡くなり、長男が3代目を継承する。

公共の福祉に尽力した兄弟

 他方で、ウォルドルフの弟ジョン・ジェイコブのほうは、第一次大戦に従軍して負傷し、右足を切断するに至った。しかし帰国後に父からヒーヴァー城を譲られ、庶民院議員を務める傍ら、高級紙『タイムズ』を買収した。それ以前のオーナー(ノースクリフ子爵)が自身の思想を強引に押しつける手段として新聞を利用したため、かなり品位が落ちていた同紙は、彼のおかげで再び高級紙にふさわしい格付けを得た。ジョン・ジェイコブもアスター男爵として貴族院入りする。

 アメリカ出身で毀誉褒貶の激しい貴族の兄弟ではあったが、晩年は莫大な財産のほとんどを寄付し、公共の福祉のために尽力した。このあたりには、父が望んだ「ジェントルマン」の教育が実によく活かされたのかもしれない。

■本記事は連載「教養としてのイギリス貴族入門」としてブックバンで公開。君塚直隆さんが実在するイギリス貴族の中から代表的な名家の栄枯盛衰を綴ります。

 ***

君塚直隆(関東学院大学国際文化学部教授)
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在:日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書/サントリー学芸賞受賞)、『エリザベス女王』(中公新書)、『物語 イギリスの歴史』(中公新書)、『悪党たちの大英帝国』(新潮選書)、『貴族とは何か:ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)他多数。

 ***

提供:会員制国際情報サイト「Foresight(フォーサイト)」

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

連載記事