大矢博子の推し活読書クラブ
2025/06/18

「すごいもん観た……」吉沢亮、横浜流星共演「国宝」3時間があっという間! 徹頭徹尾「本物」を感じた映画版 カットされた場面をぜひ原作で!

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 推しが演じるあの役は、原作ではどんなふうに描かれてる? ドラマや映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は3時間があっという間だったこの映画だ!

■吉沢亮・主演、横浜流星、渡辺謙・出演!「国宝」(東宝・2025)


 いやもう圧巻だった。ひたすら圧倒された。3時間なんて長すぎでしょ座りっぱなしで腰痛くなりそうなんて思ってた自分を殴りにいきたい。そんなもん感じてる暇なかった。ポップコーンつまんだまま食べるの忘れて指先ベトベトになったし、目を見開きすぎてドライアイ進むし。持てる語彙力を駆使しても「すごいもん観た……」としか言えない私に文筆家を名乗る資格はないのでは。

 原作は吉田修一『国宝』(上下巻・朝日文庫)。単行本は2018年に刊行され、第69回芸術選奨文部科学大臣賞と第14回中央公論文芸賞を受賞した氏の代表作のひとつである。

 長崎の極道の息子として生まれた立花喜久雄は、昭和39年、14歳のときに抗争に巻き込まれ父を失う。後ろ盾を亡くした喜久雄を引き取ったのは、たまたま抗争の起きた宴席に居合わせた関西歌舞伎界の重鎮・二代目花井半二郎だった。喜久雄に歌舞伎の才能を見出した半二郎は、実の息子である丹波屋の御曹司・俊介と区別することなく二人を鍛え上げた。

 役者として順調に成長する喜久雄だっただが、歌舞伎で最も重要視される「血筋」がないことが、次第に彼を苦しめ始める。その最初のきっかけが、事故で舞台に立てなくなった半二郎が自らの代役に息子の俊介ではなく喜久雄を指名したこと。連鎖のように起きる不幸、芸能界の浮き沈み。その中でただひたすらに芸道に邁進した喜久雄の50年が描かれる。

 映画では立花喜久雄を吉沢亮が、御曹司の俊介を横浜流星が、そして二代目花井半二郎を渡辺謙が演じている。映画の特徴は何といっても実際に吉沢亮と横浜流星が演じる歌舞伎のシーンだ。娘道成寺、鷺娘、曽根崎心中……いやもう見入ったね。自分が歌舞伎素人だから上手下手がわからないのかもという懸念もあったが、本物の歌舞伎役者の方々がSNSなどで絶賛するのを読み「だよね!?」と意を強くしたものだ。やっぱりすごかったよね?

 設定も展開も基本的には原作通りだった。ただ、上下巻もの長尺を3時間に落とし込んだ上に、映画では舞台のシーンをたっぷりとっていたので、原作を未読の人にとっては「時代がどんどん進む」という印象を与えたかもしれない。あの人はどうなったのか、その間に何があったのか、気になった箇所があったかもしれない。大丈夫、原作にぜんぶ書いてあるよ! カットされたエピソードや設定、新たに加えられた場面もあるので、順に見ていこう。


イラスト・タテノカズヒロ

■カットされた場面を原作で味わえ!

 まず原作からカットされた設定として、喜久雄の父の死の経緯がある。映画では抗争で別の暴力団に殺されたが、原作では抗争のどさくさに紛れて身内のナンバー2・辻村に殺されるのだ。それを知っているのはその場にいた半二郎だけ。その事実を隠したまま、辻村は喜久雄を援助し、喜久雄もまた辻村に恩を感じて成長する。辻村との付き合いが後の喜久雄を窮地に追いやるのだが、この辻村の存在が映画では丸々カットされていた。

 もうひとつ、カットされたのが喜久雄の幼馴染・徳次だ。映画では長崎の宴席の場面にのみ登場したが、原作では喜久雄とともに大阪に上り、その生涯にわたって陰になり日向になり喜久雄をサポートする。山っ気の強いムードメーカーで、原作では緊迫した場面の中の程よい緩衝材だった。彼が一時期喜久雄の元を離れるときのセリフ「坊ちゃんのご贔屓さんになって、楽屋にペルシャ絨毯買うたるし、専用の劇場も作ったる」が、映画で春江(高畑充希)の別れの言葉として登場した時には思わず腰が浮いたね。徳次のエッセンスがちゃんと映画に入ってる!

 春江は長崎時代からの喜久雄の恋人で、彼を追って大阪に来てからは徳次も含めた3人でつるむ場面が多い。だが春江や徳次を介した知り合いはすべて映画ではカットされている。また、喜久雄を目の敵にして舞台から干す大御所役者や、喜久雄が出演した映画や新派の関係者なども映画には登場しない。また、俊介の息子で次代を継ぐはずの御曹司がある事件を起こして謹慎するエピソードも映画ではカットされた。

 このあたりを原作で読むと、芸能界の50年史がわかる。極道の生まれで背中に刺青を背負った役者が問題視されず、むしろメディアもそれを隠してくれた時代から、暴力団が力を失い芸能界にクリーンさが求められるようになった時代への変遷が浮き彫りになっていく。メディアが(ひいては世間が)芸能人に何を望み、どんなゴシップを喜んだか。掌返しが何度も起きる。役者自身は何も変わっていないのに、時代が彼らを翻弄する様子が胸に迫る。

 改変の中でも重要なのは、喜久雄と祇園の芸妓との間に生まれた綾乃の話だろう。映画では幼少期のエピソードがあったあとは終盤まで出てこないが(あんな形で出てくるとは!)、原作ではがっつり喜久雄の生涯に絡む。綾乃は中学時代に道を踏み外し、だがそこで……と、あとは読んでのお楽しみ。ある意味、登場人物の中で最も意外な方向に進んだのが綾乃である。
 

■映画と原作、それぞれの魅力を「たっぷりと!」

 逆に原作には存在しないが映画で加えられていた印象的な場面が、舞台を追われドサ回りに出た喜久雄が地方のホテルの屋上でひたすら踊る場面だ。天国から地獄へ突き落とされ、劇場の大舞台ではなく宴会場で酔客相手に舞を見せ、そのあと衣装も化粧も崩れたままで暮れゆく空の下で舞う喜久雄。踊りながら汗と涙で化粧が剥がれていく。それはまるで喜久雄の心から何かが剥がれ落ちていくかのようで、ただただ圧倒された。

 こういう、言葉は何もなく、ただ動きと表情だけで見せることができるのが映像の強みだ。言葉を尽くして伝える小説と、言葉を排してただ見せる映画。小説で「天才」と書かれていれば、読者はそうなんだと思う。もちろんその言葉に説得力を持たせるだけの描写をする作家の腕も素晴らしいが、映像ではそれを実際に見せなくてはいけない。吉沢亮が、横浜流星が、それだけの芝居を見せなければ物語は一気にリアリティを失う。これをやり遂げたのは並大抵の努力ではないだろう。

 ふたりだけではない。ふたりが中学生の時に見て衝撃を受ける「化け物のような」人間国宝・小野川万菊役の田中泯の「鷺娘」。もともと田中泯は舞踊家だが、それを見て次代の天才二人が震えるほどのものを実際に演じなくてはならないのだ。これがまたすごかった。花井家を取り仕切る半二郎の妻を寺島しのぶが演じているのもあって、もう完全に徹頭徹尾「本物」を見せられている気分だった。

 あのセリフにこんな映像を載せるのかと感心した場面がある。御曹司の俊介を差し置いて半二郎の代役を務めることになった喜久雄が、その重責に耐えられず俊介に弱音を吐くシーンだ。「俺な、今、一番欲しいの、俊ぼんの血ぃやわ。俊ぼんの血ぃコップに入れてガブガブ飲みたいわ」──原作ではそれを聞いた俊介が自分の血に想いを馳せるのだが、映画ではそこで俊介が喜久雄に化粧を施すのだ。血を連想させる赤い紅を喜久雄の目尻に置く。まるで血を分け与えるかのように。いやもう、鳥肌が立つような演出だった。

 あとはラストも違うし、あそこも……と言い出したらキリがないのでこのあたりでやめておくが、何より大きな違いは語り口調だ。原作は、まるで誰かが誰かに喜久雄たちの人生を語って聞かせているような、丁寧でゆったりとした語りが特徴。どっぷりと役者の感情に浸る映画に対し、原作は一歩引いて彼らの芝居を見つめることができる。読者が観客として設定されているのである。

 まあ、とにもかくにも歌舞伎が見たくなった、という感想に尽きる。吉沢亮と横浜流星が演じた演目を、最初から最後までしっかり見たい。そう思ったのは、この『国宝』という映画が「本物」を伝えてくれからに他ならない。丹波屋、たっぷりと!

大矢博子
書評家。著書に『クリスティを読む! ミステリの女王の名作入門講座』(東京創元社)、『歴史・時代小説 縦横無尽の読みくらべガイド』(文春文庫)、『読み出したらとまらない! 女子ミステリーマストリード100』(日経文芸文庫)など。名古屋を拠点にラジオでのブックナビゲーターや読書会主催などの活動もしている。

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