「公平で穏健な植民地統治」の姿/

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「日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945

『「日本の朝鮮統治」を検証する1910-1945』

著者
ジョージ・アキタ [著]/ブランドン・パーマー [著]/塩谷紘 [訳]
出版社
草思社
ジャンル
歴史・地理/外国歴史
ISBN
9784794219978
発売日
2013/08/23
価格
2,860円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「公平で穏健な植民地統治」の姿/

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 三十五年間に及んだ「日本の朝鮮統治」――いやはや、この時節柄、なんともユーウツなテーマである。植民地支配、創氏改名、戦時賠償、竹島、従軍慰安婦(セックススレイブ!)と、止まることない日本非難のがなり声包囲網で耳鳴りがしそうである。だから、もし本書の結論の章タイトルが「九分どおり公平(フェア)だった」であることに気づかなかったら、読むことはなかっただろう。

 歴代八人の朝鮮総督のうち、寺内正毅、斎藤實、宇垣一成、小磯國昭には後に組閣の大命が降下された(最後の阿部信行は総理経験者)。その事実をもってしても、朝鮮総督のポストの重さはわかるし、朝鮮統治がおおむね合格点ないしは及第点だったのでは、と想像がつく。

 いやいや予断をもってはいけない。それでは、史実に基づき客観的に検証するという本書の趣旨にも反することになる。「民族史観」が幅をきかし、日本の朝鮮統治に対しての否定的な見解は、英語圏の学界でも主流になっている。それらに逐一反論を加えながら、欧米諸国に比べても「公平で穏健な植民地統治」だったこと、その遺産が韓国の驚異的発展をもたらしたことを論証していく。

 面白いのは、「民族史観」の枠組みによって書かれた反日的研究の成果から、その著者の主張とは違う結論を導き出したりするところだ。辛酸をなめた日本統治時代を生きた庶民への聞き取りに基づく研究『黒い傘の下で』については、彼ら庶民の多くが「あまり辛いことは起こらなかった」と答え、悪名高い日本人警察官についても、「不愉快な目に遭わされた記憶は一切ない」と証言していることに注目する。「ほとんどの人は日本の統治に順応していた」からである、と。相手の材料を使って、「民族史観」とは別の像を描いてしまう。おそらく、そのほうが歴史の実像に近いのではないだろうか。今までは「深甚な苦痛、屈辱感、そして怒り」を持った体験者たちの、「否定的な体験のみに焦点が絞」られてきたことと、その歪みを諄々と明らかにしていく。

 本書の主著者ジョージ・アキタは大正十五年ハワイ生まれの日系人で、近代日本政治史の大家である。『明治立憲政と伊藤博文』(東大出版会)は坂野潤治らによって訳され、アキタの傘寿記念論文集『山県有朋と近代日本』(吉川弘文館)は伊藤隆編で、東大系の学者が執筆している。ハワイ大学教授時代の教え子には、櫻井良子という名の毅然とした美人留学生もいた。現在の「国士」櫻井よしこ女史である(「週刊新潮」の連載コラムで、本書を紹介している)。

 アキタの本来の研究領域は、一次史料を読み込んだ上での、伊藤博文、山縣有朋の研究である。初代朝鮮統監であり、安重根によって暗殺された伊藤と、「利益線」という概念で朝鮮半島への影響力を正当化した軍閥の親玉・山縣。二人は朝鮮統治の歴史にあって、格好の悪役に見えるが、アキタの研究は、彼らがいかに細心に、用心深く、強制的手段をとらずに、「漸進主義」を基本姿勢にしていたかを明らかにしてきた。日本の朝鮮統治の基本方針は、原則として、その路線が遵守されていた。「公平」「穏健」の源流は、伊藤と山縣にこそある。

 本書と同じ草思社から翻訳が出た画期的な朝鮮研究に、ハーバード大教授エッカートの『日本帝国の申し子』がある。韓国の経済発展が、戦前の日本の資本、技術移転、管理体制の遺産によることを立証した本である。本書では、『日本帝国の申し子』が韓国では「常軌を逸した感情的な反発」をまきおこしたことを記している。

 その伝でいけば、本書も、韓国では、同じ運命をたどることになるのかもしれない。アキタという著者の名前、アメリカよりも日本で先行出版されたことも、大きなマイナス材料だろう。しかし、この本の最後に著者が発するメッセージは、しっかりと受け止めてもらいたいと、余計なお節介で、思ってしまう。それは「日本と朝鮮総督府は、李氏朝鮮には欠如していた、ぼんやりとしたものながら何かがきっと良くなるに違いないという期待感を朝鮮人民の多くに与えた」という点である。

 女性旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)を読むと、日清戦争前後の朝鮮の貧しい姿がよくわかる。彼女は二十年前に旅した日本と朝鮮を比較して、「行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う」と書いた。その「行政」を持ち込んだのが朝鮮統治だったのではないか。

「九分どおり公平だった」とする本書は、訳者が述べているように「理論武装の財産」である。ニューヨーク・タイムズにもアメリカ大使館にも、「民族史観」は根強くはびこっていることを、本書は具体例をあげて警告している。従軍慰安婦は「レイプ」だという研究者が、アメリカの歴史学界で高い評価を受けているともいう。そうした言論に対抗するには、有力な論拠を提供してくれる。

 しかし、それはあくまで対外的に、である。対内的には残りの「一分」を静かに見つめる必要がある。アキタは支那事変、日米戦争の過程で、動員が強化され(これは日本国民に対しても同じだったわけだが)、「それまでは緩やかで穏健だったアプローチは、無計画で強制的な同化政策にとって代わり、それが日本の朝鮮統治に対する民族史観的非難の焦点になったのだった」と書いている。

 この一節をこそ、我々はこっそりと味わいたい。

新潮社 新潮45
2013年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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