生き生きと再現された藤圭子との会話

レビュー

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流星ひとつ

『流星ひとつ』

著者
沢木, 耕太郎, 1947-
出版社
新潮社
ISBN
9784103275169
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

生き生きと再現された藤圭子との会話

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 宇多田ヒカルは、もう『流星ひとつ』を読んだろうか。すでに読了しているならば、新作アルバムを制作するパワーを与えられたのではないだろうか。通りすがりの読者に過ぎない身として読んでも、心揺さぶられるものがあるのだから。

 藤圭子の「水晶のように硬質で透明な精神」の「最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真」と、「後記」で沢木耕太郎は書いている。マスコミ不信でインタビュー嫌いの二十八歳の演歌歌手が、引退の間際に心を開いた三十四年前の言葉は粒だっていて、藤圭子名言集のおもむきをも呈している。

 この本は藤圭子と沢木の二人の会話だけで成り立っている。ト書きもなにも一切がない、実験的なノンフィクションである。読者は全八景の白熱した二人芝居の最前列の観客になった気分である。ホテル四十階のバーという設定が舞台であり、背景の闇から、そこだけおぼろなスポットライトを浴びた二十八歳の「あたし」と三十一歳の「ぼく」が浮かび上がってくる。インタビュアーとスターという関係が、カウンセラーとクライアントという関係にも見えてくる。出会ってすぐに打ち溶けはじめた男女の会話に耳をそばだてているような錯覚にも襲われる。心地よい緊張感が全体を支配している。

 歌声と容姿を誰もが知っている藤圭子と、爽やかで好感度の高い沢木耕太郎という予備知識があるため、実験性はまったく気にならない。むしろそこが作品としては問題かもしれない。

 今ではなかば忘れられている「ニュージャーナリズム」という言葉がある。ゲイ・タリーズ、ハンター・トンプソンなど、60年代アメリカに出現した、方法論を強く意識した書き手たちの潮流である。若き日の沢木は彼らに拮抗しようとしていた。去年、「ラムダイアリー」という映画が公開され、ジョニー・デップが敬愛するハンター・トンプソンの役を演じていた。映画を観ながら、ニュージャーナリズム台頭期の昂揚を思い出した。

 作家の檀一雄夫人の一人称だけで書かれた沢木の『』は、『流星ひとつ』と対になる作品である。『檀』では沢木の野心的な方法が必ずしも成功していなかったという記憶がある。

 それにひきかえ、『流星ひとつ』は完璧に近い。藤圭子の持つ原石の輝きを損なうことなく、周到な構成と、読点ひとつにまで神経を研ぎ澄ませた会話のキャッチボールが、生き生きと再現される。

 簡単な挨拶のあと、最初の質問がデビュー以来十年間に稼いだ金額である。「関係ないよ、そんなこと、どうでもいいよ」とかわされる。藤圭子の育ってきた貧困という環境、芸能界特有の大金が人を蝕んでいく現実。それらと密接にかかわる質問だから、本書の底流には、一方で常にカネの問題が流れている。沢木は一旦あきらめて、すぐに後退する。「とうてい、すぐれたインタヴュアーにはなれっこない質問だった。数字に関する質問は撤回します」。藤圭子は「フフフ」と応じる。

 次には、大宅文庫に行って過去の記事をたくさん読んだら凄惨な印象を受けたと話を変える。藤圭子が初めて嘘の記事を書かれた思い出を語る。「ハハハッ、そいつは傑作だ」。沢木が不用意に声を上げると、「笑うなんて、ひどいよ」と言われ、「ごめん」とあやまる。

 沢木のインタビュー作法を実地に見るようであり、二人の距離を測りながら、少しずつ相手に近づいていく呼吸が伝わってくる。

 お酒が運ばれてきた後、沢木は五年前のパリのオルリー空港での出来事を語り始める。そこで偶然接触があった「黄色いオーバーが、なんとなく野暮ったかった」実に綺麗な女の子のことを。「あの男の人が ……沢木さんなのか!」。藤圭子の口から「沢木さん」という固有名詞が洩れる。フランス映画ならここから間違いなくラブストーリーが展開するシーンである。

 この後は、ほんとのことしか語れない潔癖な、潔癖すぎる藤圭子の語りがどんどん冴えてくる。闇だまりのような場所での生い立ち、家庭内暴力(沢木は藤圭子の両親については腫れ物に触るようについつい敬語を使ってしまうところがおかしい)、男運、おカネの苦労、手術によって失われた自分の声のことを語っていく。「業務用には心の取りはずしができなければ、やっていけないんだろうね」「どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」と心境も吐露される。おそらく沢木のほうでオフレコと判断したエピソードも相当あったのではないだろうか。

 髪の毛を茶色に染めていたデビュー当時の話から、会話はこんな風にも展開する。「その頃のあなたに会ったとしたら、ぼくはその藤圭子を好きになっただろうか」「どうだろう。たぶん、なったと思うよ。そんなにいやな子じゃなかったから、好きになってくれたと思うよ」

 藤圭子と沢木耕太郎は、素の人間として相対している。時には年上の沢木の方が人間として位負けしそうになる。その部分も隠さずに、インタビューに残している。これはやはり稀有な本である。

 残念に思えてならないのは、この本が三十四年前に陽の目を見なかったことだ。もう一回のチャンスは十年前にもあった。沢木の著作集が出た時である。その時、雑誌発表から二十七年間放置されていた傑作『危機の宰相』は本になった。『流星ひとつ』も収録しようとしたが、藤圭子と連絡がつかなかったという。もし連絡がとれていたら、藤圭子の運命は変わっていたのではないだろうか。

新潮社 新潮45
2013年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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