初めて露わになる近代日本のせつなさ

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愛と暴力の戦後とその後

『愛と暴力の戦後とその後』

著者
赤坂, 真理, 1964-
出版社
講談社
ISBN
9784062882460
価格
924円(税込)

書籍情報:openBD

初めて露わになる近代日本のせつなさ

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 なんとも官能的にして知的な、歴史への問いかけの書である。日本という国を対象にして、著者の過敏な肌がざわめき、五感が全開となる。現実の目前の風景が退いたかと思うと、そこに数十年前の空気が濃密に漂いだす。死者たちと生者たちの声にならない沈黙を、著者は全身全霊で聴き取ろうとしている。『愛と暴力の戦後とその後』という自国の近現代の歴史のせつなさが、読む者の肌から内臓へと徐々に滲入してくる。これは稀有な体験ではないだろうか。

 本書は長編小説『東京プリズン』で司馬遼太郎賞を受賞した作家・赤坂真理による、向こう見ずといっていい、自身と自国の来歴を確認する試みの記録である。学校でも親からも教えられてこなかった歴史を、小説家独特の直観を頼りに自習し、探究し、発見していく。

『東京プリズン』の主人公マリは留学先アメリカのハイスクールで、ディベートという法廷の場に立たされ、「日本の天皇には戦争責任があるか」の立証を課せられた。その受け身の姿勢から一歩を進めて、「私の国には、何か隠されたことがある」という切実な問いを、小説の形ではなく深めていく。

 歴史は鳥瞰図では示されない。あくまでも体温と湿気をもった、触れれば血が出る実在する「もの」「こと」として、著者は自国の歴史に寄り添っていく。その歴史を忘却から救い出そうとする。日本人が無意識に行なってきた歴史の隠蔽に抗おうとする。既成の知識をひとつひとつ吟味し直そうとする。

「一九八〇年に、「何か」が変わった」。これは本書の中にある著者の一番重要な直観である。その年、十六歳の著者は『東京プリズン』のマリと同じくアメリカに留学する。留学にも失敗して、翌年すごすごと帰国すると、そこには断絶があった。「暴力の残り香、そして戦争の残照のようなものが、八一年にはきれいになくなっていた」。その断絶は塗り込められ、なめされていた。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本全体が信じたその時代から、著者はブラウン管の中にある「暴力」を抽出してくる。松田優作とお笑いブームである。

 松田優作は「太陽にほえろ!」のジーパン刑事役で「なんじゃこりゃあ!」と叫んで一九七四年に殉職したが、一九八〇年には「探偵物語」の工藤ちゃん役でもう一度殺される。ジーパンの「犬死に」と工藤の「無駄死に」が対比され、意味づけられることなく葬られた戦争中の大量死に対する「民間努力」による追悼だったのでは、と推察する。深読みだとしても示唆的な議論である。

 松田優作なき後のテレビを席巻するのが、漫才ブームを契機とするお笑い芸人たちである。彼らはよく言えば「場の仕切り屋」、もっと言えば「同質集団内部の調停者」であり、そのバラエティ番組は「閉鎖集団のいじめを見る気持ちになるのだ」と指摘する。男たちの暴力の内向化であり、空気という同調圧力の顕在化である。

 著者は東京オリンピックがあった一九六四(昭和三十九)年生まれである。ちびまる子ちゃんや「ドラえもん」ののび太と同世代なのだという。それらや「サザエさん」、映画版「三丁目の夕日」といった日本の「鉄板コンテンツ」を貫くものが「戦後から高度経済成長へ向かう風景」である。「空間が人の体感とマッチしていた」幸福な記憶を確認することで、かろうじて「「日本」という大きな物語が機能した」時代を想起する。その象徴的な風景として、ガキ大将がいて土管のある空き地という「共有の空間」があった。いじめではなく、素手の喧嘩が行われていた。そうした所有者の曖昧な空間は、横井庄一さんが「恥ずかしながら」と帰ってきた一九七二年にはまだあったという。田中角栄が総理大臣になった年である。

 紹介が片寄り過ぎたかもしれない。本書の本領はむしろ大文字の「歴史」に正面向かって挑んでいるところにあるからだ。安保闘争、オウム事件、天皇、憲法、原発など。語られざる最たるものとしての戦争とアメリカ。著者は小説家ゆえの言葉への研ぎ澄まされた意識を最大限に駆使していく。麻生太郎が「未曾有」を「みぞゆう」と読んだことも、石原伸晃が「福島第一サティアン」と言い間違えたことも、バカにして溜飲を下げるのではなく、考察の対象に加えていく。

 憲法も安保条約も東京裁判も英文の原典から検討していく。自称「帰国子女のなりそこない」の強みだ。そうすると、「戦争放棄」も「侵略戦争」も違った顔を見せてくれる。Peopleを「国民」としていいのか、Constitutionを「憲法」としていいのか、という問題にも突き当たる。護憲派にも改憲派にも、議論の根底からのやり直しを要求する迫力が備わっているのだ。

 本書のヒントになったジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』のタイトルも、英語の語感ではもっと性的なニュアンスが強く、「性交の含み」さえあるという。『敗北を抱きしめて』はピューリッツァー賞受賞作とはいえ、所詮は占領期日本に関する要領のいい概説書でしかない。本書のほうがはるかに戦後日本を現前化させてくれる力がある。

 私は本書と『東京プリズン』をある故人に読んでもらいたかったと切に思った。米国社会と一度は寝たと書き、米国滞在中に戦後日本を「きわめて異常な状態にある国」と眺めた江藤淳である(『アメリカと私』)。憲法、戦後、日米関係についての二人の文学者の対話を読みたかった。たとえその結論は一致しなくとも。

新潮社 新潮45
2014年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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