『車輪の下』
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【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】車輪の下 [著]ヘルマン・ヘッセ
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
昭和三十年代のはじめ、中学生のあいだではケストナーの児童小説『飛ぶ教室』と、そしてヘッセの『車輪の下』を読むことは思春期の通過儀礼だった。
『車輪の下』の主人公の少年ハンス・ギーベンラートは、日本の中学生にも自分のことのように思われた。
受験勉強の厳しさ、学校教育への疑問と反発、友情、性の目ざめと恥らい。ハンスの思春期の揺れ動く感情がすべて自分のことのように思えた。
ヘッセ(一八七七-一九六二)の一九〇六年の作。自伝的要素が濃いという。
ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)の小さな町に住む少年ハンスは、勉強がよく出来る。当時、優等生は日本の小学校に当る町の学校を出ると、州の神学校の試験を受けるのが普通だった。合格すれば、国家によって養成され、将来の牧師としての道が安定する。
ハンスは父親の、校長の、そして町の人々の期待に応えようと猛勉強する。そのために、のびのびとした少年時代を犠牲にしなければならない。
ハンスの住む町は、ヘッセが少年時代を過したカルプというドイツ南部の美しい小さな町がモデル。この小説の魅力のひとつには、ハンスの町への思いがある。
森、川、谷間の草地、広場、牧場、教会の塔、モミの木の香り。まだ受験勉強の厳しさにさらされていなかった頃、ハンスはよく草原を歩き、川で釣りをした。そこには黄金の少年時代があった。
それが、受験勉強、神学校への入学、厳しい共同生活のなかで失われてゆく。緑豊かな自然のなかの暮しが、規則の厳しい神学校にとってかわられてゆく。
釣りに喜びを見出した少年時代と、息苦しい神学校の生活が対比される。
ヘッセは第一次世界大戦の時に、戦争に反対したため非国民と指弾された。その結果、スイスの小さな村で暮すようになった。少年時代を過した森と川のある町への郷愁があったのだろう。
神学校時代の早熟な少年への憧れも心に残る。なんと彼にキスをされる。漫画家の萩尾望都がヘッセを愛読し、影響を受けているのはよく知られている。