【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】ヘンリ・ライクロフトの私記 [著]ギッシング

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【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】ヘンリ・ライクロフトの私記 [著]ギッシング

[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)

 彼は教養ある、また資産もある父の家に生まれた。父の読書の趣味を受け継いだ。名門のカレッジでは古典文学を学び、それを深く愛するようになった。成績は抜群であった。しかし人生的にはまことに愚行が多かったのである。

 まず十八歳で若い賤業婦を救おうとして盗みを働き投獄される。釈放されてからはアメリカで一時はラテン語の家庭教師などをやったがそれも続かず、極貧に苦んだが、ある人の助けでドイツに渡りショーペンハウエルやコントなどを研究して帰国。前に救った賤業婦と結婚したのは二十二歳の時だ。この女はアルコホリックのだらしない女だったが、彼は極貧の中からよく面倒をみてやる。この女が死ぬとまた下宿の娘と無謀な結婚。この時三十三歳。極貧の中で子供も二人できた。この結婚はうまくゆかず、四十歳の時に知り合った知性のあるフランス女性と結婚――つまり重婚――してフランスに渡ったが、経済的には苦しいままだ。

 この三回の結婚生活も悲惨な貧乏続きであった。しかし借金も泥棒もしなかったのは、小説を書き続けたからである。傾向から言えば自然主義と言える。自然主義小説は性慾曝露中心と貧困生活描写中心に大別してもよいと思うが、彼の場合は貧困が中心だ。彼の小説は評価する人もいて、文学史に名前を残したが本は売れなかった。ディケンズを尊敬しながらも、そのユーモアを学ばなかったからだ。

 ところで彼がユニークなのは、最晩年になって空想エッセイを書いたことだ。突然、三百ポンドの年金が遺産として転がり込むという設定である。ここから理想的な知的生活が流麗な文章で自伝風に描かれてゆく。南イギリスの静かな一軒屋に女中と二人で住む。この女中は話しぶりも静かで足音も立てない。料理も上手だ。彼はそこでは朝、目を覚した時から幸福感がある。家は静かでロンドン貧民街とは違うのだ。皮肉なことに売れない小説家のこの空想的知的生活の本はロングセラーで、出版以来日本の学者達にも理想的生活のヒントを与え続けてきたのである。

新潮社 週刊新潮
2015年11月19日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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