日本の北と南で起きた真実の記録 『吉村昭 昭和の戦争5 沖縄そして北海道で』

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日本の北と南で起きた真実の記録

[レビュアー] 佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

 吉村昭氏は、あの戦争に徹底的にこだわった作家だ。本書では、沖縄と北海道での戦争が取りあげられている。

 沖縄では、軍人・軍属だけでなく、民間人も巻き込んだ凄惨な地上戦が展開された。本土復帰の5年前、1967年に吉村昭氏は沖縄に長期滞在し、沖縄戦に関するていねいな取材を行い、それをもとに小説『殉国――陸軍二等兵比嘉真一』を書いた。そのモデルとなった国吉真一氏について、吉村昭氏はこう記す。

〈国吉さんは、中学三年生になったばかりで陸軍二等兵になり、年齢は十四歳であった。クラスの中で最も背丈が低く、腋毛もはえていなかった。支給された軍服は小さいものを選んだが、むろんだぶだぶで、上衣の袖とズボンの裾を大きくまくらなければならなかった。鉄兜をかぶると、眼の下までかぶさったという。

 国吉さんは、戦場を駈けまわり、将兵や級友が続々と戦死する中で、奇蹟的に生きつづけた。

「なぜ、周囲の人ばかり死んで、私だけが生きているのか、不思議でなりませんでした」

 と、国吉さんは、首をかしげて言った。

 その戦場での回想は、凄惨であった。将兵や民間人とともに沖縄本島最南端の摩文仁に押しこめられるが、かれはそこでも生きる。島の北部への脱出をはかって、散乱する腐爛死体の下にもぐって敵兵の眼からのがれようとしたが、やがて発見される。かれはハワイに送られ、戦後、沖縄へ還されるが、級友のほとんどが死んでいることを知ったという。

 私は、帰京後、国吉さんの体験を中心に、他の方からの証言で肉付けをしながら筆を進め、四百枚近い小説を書き上げることができた。〉

『殉国』の内容は、私にとって「ごく当たり前で、どこにでもある物語」だ。なぜそのような感想を持つかというと、私には母から聞いた沖縄戦の物語があるからだ。1930年生まれの私の母(佐藤安枝、旧姓上江洲、2010年に死去)は、沖縄の久米島出身だ。沖縄本島の西100キロメートルに所在する久米島には、当時、小学校しかなかった。母は那覇の親戚の家に身を寄せ、昭和高等女学校に通っていた。1944年、戦局が厳しくなり、学校から3、4年生は学徒隊(後に梯梧隊と呼ばれるようになる)に志願し、1、2年生は家族のもとに帰るようにと指導された。女学校2年生で当時14歳だった母は、帰郷するはずだった。しかし、沖縄本島と久米島をむすぶ連絡船は、米軍の空爆で沈められ、帰郷の可能性は奪われていた。母の2人の姉が那覇で生活していた。いちばん上の姉が「石部隊」(陸軍第62師団)の軍医部に勤務していた関係で、母は14歳で辞令を受け正規の軍属として勤務することになった。

 母たち三姉妹は最前線で軍と行動をともにした。前田高地の激戦で、母は米軍のガス弾を浴びた。幸い、すぐそばに軍医がいて、注射などの処置を受けたので命拾いした。しかし、喘息を患うようになり、ステロイド剤が普及するまではずいぶん苦しんだ。軍人の中にはすぐに大声で怒鳴り、ビンタをはたく乱暴者もいたが、「米軍は女子供を殺すことはしない。捕虜になりなさい」とそっと耳打ちする英語に堪能な東京外事専門学校(現東京外国語大学)出身の兵士もいた。こういう助言をしてくれた将校や兵卒が何人もいた。飛行機が空襲で焼かれてしまったため、米軍に「斬り込み」攻撃を行った将校たちから、「いつか日本に行くことがあったらおふくろに届けてくれ」と遺書や写真を母はいくつも託された。

 1945年6月22日(一般には23日となっているが、元沖縄県知事の大田昌秀琉球大学名誉教授の実証研究に基づく22日説を私は正しいと考える)、沖縄最南端の摩文仁の司令部壕で第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官(陸軍中将)、長勇参謀長(陸軍中将)が自決し、沖縄における日本軍による組織的戦闘は終結した。その後も、母は摩文仁の海岸にある自然の洞穴に数週間潜んでいた。母と国吉真一氏は、この時期にすぐ近くにいたのだと思う。母は小さな洞穴に17人で潜んでいたという。7月に入ってからのことだ。母たちは米兵に発見された。訛りの強い日本語でアメリカ兵が「デテキナサイ。テヲアゲテ、デテキナサイ」と投降を呼びかける。母は自決用に渡されていた二つの手榴弾のうちの一つをポケットから取りだし、安全ピンを抜いた。信管(起爆装置)を洞窟の壁に叩きつければ、4?5秒で手榴弾が爆発する。母は一瞬ためらった。そのとき、母の隣にいた「アヤメ」という名の北海道出身の伍長が「死ぬのは捕虜になってからでもできる。ここはまず生き残ろう」と言って手を上げた。母は命拾いした。私は子供の頃から何度も「ひげ面のアヤメ伍長があのとき手を上げなければ、お母さんは手榴弾を爆発させていた。そうしたらみんな死んだので、優君が生まれてくることもなかった。お母さんは北海道の兵隊さんに救われた」という話を何度も聞かされた。そして、捕虜になったときにアメリカ兵によって斬り込み隊員から預かった手紙や写真を没収されたことを母は死ぬまで悔やんでいた。

 私だけでなく沖縄にルーツを持つ多くの人にとって、沖縄戦の物語はアイデンティティーと不可分の関係にある。沖縄戦をめぐる家庭ごとの物語が語り継がれている。それ故に沖縄人は他の日本人と異なる歴史観を持つ。米海兵隊普天間基地の移設にともなう辺野古(沖縄県名護市)新基地建設問題で、沖縄とそれ以外の日本の距離がかつてなく開いている現在、『殉国』は、沖縄人と日本人の歴史観のギャップを縮める役割を果たすことができる和解の文学として特別の意味を持つようになっている。

 ソ連との戦争は、アメリカとの戦争と異なる悲惨さを帯びていた。『烏の浜』は、ソ連との戦争の一断面を伝える重要な作品だ。1945年8月22日午前4時20分頃、樺太からの引揚船として用いられた逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が、稚内に寄港し、小樽に向かう途中、北海道北西部の増毛沖(別苅村大字大別苅西北方5カイリ)の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈された。国籍不明の潜水艦がソ連海軍に所属していたことは確実だ。〈撃沈された「小笠原丸」の乗船者は、同船乗組員八十六名、海軍警備隊員十三名、引揚老幼婦女子約六百名、計約七百名で、そのうち生存者はわずかに六十二名であった。/殊に、引揚者の生存者数は約六百名中二十名に過ぎなかった〉

 日本はポツダム宣言を受諾し、日本軍は無条件降伏している。それにもかかわらず、ソ連は、小笠原丸を無警告攻撃し、沈めた。国際法に明白に違反する蛮行だ。

〈海上に、動くものがあった。浮んでいる行李が、回転している。一人の老人がその上に這い上ろうとする度に、行李がまわっている。やがてその動きがとまると、老人の姿も消えた。

 かれ(引用者註*大崎邦雄氏)は、死の予感におそわれた。冷たい海水につかっている体は、激しく痙攣している。タラップをつかむ手も感覚を失って、今にも手をはなしそうであった。戦時をようやく生きぬいてきたのに、このような死に方をするのはいやだ、と思った。

 その時、かれの眼に異様な光景が映った。ほの暗い海上に、強い光を放ったものが何条も飛んでいる。それはあきらかに曳光弾で、浮上した潜水艦が海面を機銃掃射していた。かれは、潜水艦の執拗さに慄然とした。戦争は終っているというのに、潜水艦は灯火をともして航行している「小笠原丸」を撃沈し、さらに、辛うじて死をまぬがれ漂流している者に、機銃弾を浴びせかけている。〉

 なぜ、ソ連はここまで執拗に日本人を憎んだのだろうか。ロシアを専門とする外交官として7年8カ月モスクワに勤務したことを含め、ロシア人と30年近く付き合っている私には、それを解く鍵が、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に署名した1945年9月2日に行ったスターリンのラジオ演説にあることが、皮膚感覚でわかる。あのラジオ放送でスターリンはソ連国民に対して、〈1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そして、ここにその日はおとずれた。きょう、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した。/このことは、南樺太と千島列島がソ連邦にうつり、そして今後はこれがソ連邦を大洋から切りはなす手段、わが極東にたいする日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を大洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになるということを意味している。〉(独立行政法人北方領土問題対策協会HP)と訴えた。日露戦争の復讐をソ連軍は、無辜の日本人に対して行ったのである。北方領土の占拠、シベリア抑留とともに小笠原丸を含む引揚船に対する攻撃は、いずれもスターリン主義が引き起こしたものだ。日本はあの戦争に敗北した。ただし、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約に違反して、日本に戦争を仕掛けた。ソ連との関係では、日本は侵略された側である。歴史の真実を記憶する上でも、『烏の浜』をはじめとする北海道の戦争に関する吉村昭氏の作品は重要な意味を持つ。

新潮社 波
2015年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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