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【追悼・白川道】心を焦がした流星
[レビュアー] 中瀬ゆかり(新潮社出版部部長)
作家であり、私生活では私の19年来の事実婚のパートナーでもあった、「トウチャン」こと白川道が逝った。4月16日朝10時56分。死因は大動脈瘤破裂。享年69。本来ならこの立場で自社の雑誌に彼の追悼文を書くべきではないのかもしれない。でも、白川道という人間のことはこの世で誰よりも自分が知っているから、と筆をとらせてもらった。公私混同をお許しいただきたい。
死の前日の夜の白川は大好きな麻雀に興じていた。会食の終わった私が「今から帰る」というメールを打つと、すぐ「わかった」と返事が来たが、疲れていた私は帰りを待たず、眠りについた。彼のメールは今年に入って覚えたばかりで、相手は私と、晩年交流を頂いた俳優の三浦友和さんの2人だけ。この世での私たちのやりとりはこれが最後となる。
そして翌朝。朝9時に咳き込む音で目覚めた。居間にいくと、血を吐いてソファの下に崩れ落ちている姿が目に飛び込んだ。救急車で病院に運ばれ、死亡宣告を受けるまでのことは、よく覚えていない。「苦しまなかった」という医者の言葉が救いだった。自宅で死亡ということで遺体は警察署に運ばれた。「早ければ、明日の朝お返しします」。白川は、かつて株の投資顧問会社を経営するバブル紳士で、経済犯として逮捕され、3年間刑務所に「おつとめ」したことがある。私と出会うかなり前のこと。ほかにも麻雀賭博で警察に一晩泊まったこともあるのだが、そのときと同じ署だ。「トウチャン、死んでからも麻布署の厄介になったね」遺体を引き取ったときに冗談っぽく語りかけてみた。
豪快に笑うのが大好きな人だった。何時間でも話が尽きず、価値観のツボが一緒。毎日些細なことで笑い転げ、お互いに、魂の双子、と呼び合った。博打も旅も、どこにいくのも何をするのも一緒。「わしが死んだらどうするんや。ペコマル(私の愛称)は生きていけんだろう」と口癖のようによく問われたものだ。69と50歳。19も年が離れていた私たちには、死の話は身近で、一番切実な話であった。結論はいつも、「あと20年頑張って、ほぼ同時に逝く」。「でも順番で、先に見送ってくれよ。俺はすぐ宇宙にぴゅーっと登って一番光る星になって待ってる。おまえが宇宙で迷子になるといけないから、ピカピカした星を目指してあとから飛んで来い。手を離すなよ」。彼は、大好きだった「山崎」のグラスを片手に、酔うと必ずそう語って涙ぐんでいた。
世間では、麻雀・競輪のギャンブル狂、無頼派ハードボイルド作家、借金だらけの生活破綻者、という評価だったが、白川道はその作風のまま、ピュアで寂しがり屋のロマンチストで、愛すべきろくでなしだった。この「昭和の男」は、デビュー作「流星たちの宴」(新潮社)が話題になり、20年前に作家デビューを果たすと、その後は寡作ではあるものの、確実に男のロマンを書ける作家として少なからず支持を得た。「天国への階段」(幻冬舎)がベストセラーになった際には多額の印税を即使い果し、翌月には前借を申し入れ、版元の社長が「ウソだろ!?」と叫んだという呆れ果てた逸話もある。
昨年末書下ろし長編「世界で最初の音」(KADOKAWA)を出版、この3月には新潮社から「神様が降りてくる」を上梓したばかり。夕刊フジでは「俺ひとり」というエッセイで日常や人生観を語り、毎日新聞では「天の耳」という柄でもない人生相談もやった。作家生活20年。最期の日まで筆を執るのを仕事として旅立つことができた。作家と編集者という関係でもあったものの、プライドの高い白川は、私が少しでも作品の欠点を口にするのを嫌がった。喧嘩になるくらいなら、と、「原稿は本になるまで一切読まない。書斎にも入らない」と宣言をしていながらも、同時に小説のヒントになる助言や褒め言葉を誰より求められていたのも知っている。作家の誇りと表裏一体の孤独と哀しみを、修羅を歩んだ男の横顔から学ばせてもらった。……トウチャン。刺激的で愛と笑いに溢れた日々を私の人生に与えてくれてありがとう。
書斎に遺された原稿用紙には「世の中には、心を焦がす人間と、そうでない人間がいる。この小説は心を焦がす人にだけ読んでもらいたい」と万年筆で走り書きされていた。
初七日には、大きな流星群が日本列島で観測された。遺骨は生前の約束通り、この夏、彼の愛した海に帰す。