【追悼・船戸与一】ゼロ度の男――高野秀行

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書籍情報:openBD

【追悼・船戸与一】ゼロ度の男

[レビュアー] 高野秀行(作家)

 船戸与一氏が亡くなった。

 知らせを受けた日、たまたま私は映画監督の友人と会った。訃報を伝えると、読書家で、特に若い頃は夢中で船戸さんの小説を読みまくっていたという彼はしみじみ言った。

「船戸与一は他の作家と全然ちがったね。冒険小説やハードボイルドなんてジャンルじゃくくれない。むしろ、ドストエフスキーとかコーマック・マッカーシーなんかと同じ枠で語るべき作家なんじゃないか」

 なかなか大胆だが一理ある指摘、と思ったものだ。

 船戸さんの小説は「熱量」がちがうと多くの人が言うし、私もそう思う。船戸与一に似た作家というのは全くいない。同様に船戸さん本人も、私がこれまでの人生で全く見たことのないタイプだった。

 ひとことで言えば「ゼロ度の男」。

 船戸さんは私にとって早稲田大学探検部の大先輩である。その縁で、今から十年前、私は船戸さんのミャンマー・ベトナム取材に同行することになったが、一ヶ月半にも及ぶ取材旅行中、その無頓着ぶりに幾度となく驚かされた。宿泊や食べ物、カネに恐ろしくこだわりがない。「どうでもいい」「大したこっちゃねえ」が口癖だった。

「政治的な話をむやみにしてはいけない」というのが当時、軍事政権だったミャンマーでの常識だったが、船戸さんはタクシーの運転手でも食堂の主人にでも平気で「アウン・サン・スー・チーをどう思う?」と訊いていた。ちょっとした思いつきで、現地ガイドに「麻薬王の家へ連れて行け」と言って、彼を著しく困惑させたこともある。

 私はこういう船戸さんの「天然」な姿を『ミャンマーの柳生一族』という本に遠慮なく書いたが、無論叱られることはなかった。船戸さんは単なる旅行記など読まないし、たとえ読んだとしても、自分がどう書かれているかに頓着するような人ではなかった。名誉心や嫉妬心からも遠い人だった。

 だがエゴがないわけではない。自分がやりたいと思ったことを社会常識や人間関係の気遣いで譲るということはなかった。常にエゴを自分の決して譲れないギリギリの低いライン、喩えるなら「ゼロ度」に保ち、他人のエゴが上がったり下がったりするのを熱心に観察しているという風情(ふぜい)だった。

 船戸さんの欲望はひとえに「作品」を読むこと、創ることに集中していたように思う。ノンフィクションは片っ端から読み、莫大な知識を有していたし、「めったに読まねえ」という小説ですら相当読んでいた。

 旅の最中、毎晩五時間は酒宴が続いたが、そのときよく「ヘミングウェイはさすがに上手いと思うけどよ、所詮は毛唐だな」とか、「太宰治のファンみたいな連中がよ、『トカトントン』がいちばん好きですとか言うけど、聞いちゃいらんねえな。太宰の最高傑作は『斜陽』に決まってるだろうが」などと言っていた。船戸さんが太宰を一通り読んでいるのかとびっくりしたものである。

 ガンで余命一年を宣告されたときも、悟りを開いているんじゃないかというほど、自らの死に頓着していなかった。反面、「ここ(病室)じゃ煙草が吸えなくてきつい。一口吸うと看護婦が飛んできやがる。あいつら麻薬犬みてえだな」と嘆いていた。

 その強靱すぎるゼロ度維持力で、抗がん剤の強い副作用などと闘いながら、大作『満州国演義』を妥協なく書き切った。

 私が最後に会ったのは亡くなる二週間前だ。

「医者によればそろそろ死ぬ頃なんだけどよ」とうそぶきながら、「現場に行かねえと小説がもっと書きたくなってくるな」と言っていた。「現場に行くと、ああ、この山はこんな感じなのかとかわかって“発散”できるんだけどよ、行けねえと発散できねえから自分で書きたくなるんだ」

 死を目前に見据えてこんなことを話す人がこの世にどれだけいるだろうか。

 そういう作家だからこそ、ドストエフスキーまで連想させる叙事詩的な物語を書き綴ることができたのだろう。ゼロの位相から世界を見つめ続けていたのだ。

 船戸与一はもういない。そんな作家はもういない。

新潮社 波
2015年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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