日本人の死生観はどう変わってきたか

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死者の花嫁 : 葬送と追想の列島史

『死者の花嫁 : 葬送と追想の列島史』

著者
佐藤, 弘夫, 1953-
出版社
幻戯書房
ISBN
9784864880794
価格
2,640円(税込)

書籍情報:openBD

日本人の死生観はどう変わってきたか

[レビュアー] 稲垣真澄(評論家)

 お墓のあり方や人間の弔い方は、個人と共同体の奥底に根ざす習俗であるゆえ、簡単には変わらないと従来考えられてきた。しかし墓じまい、手元供養、樹木葬、直葬、ゼロ葬……などの言葉で語られる現在進行形の事態は、そうしたものもじつは短時日のうちにすっかり様変わりしうることを明瞭に示している。

 この問題を考えるにあたっての著者の立場ははっきりしている。個々の現象よりも、現象の背後にある霊魂観・世界観の変化を問うのだ。早い話、個人墓はどんなに遡っても江戸前期を超えない。家族墓はさらに新しく、せいぜい幕末・明治期以降だ。それ以前の中世墓は、五輪塔や板碑などの往生祈願の遺物こそ見つかるものの、葬られた個人を特定できるものは一切なく、中世と近世・近代の間には深い断絶のあることが分かる。

 著者の解釈は鮮やかだ。他界というか仏・超越者の観念が強いリアリティを持っていた中世期、人々はこの世とは隔絶したはるかな西方浄土へ往生し救いを得ることを真剣に願った。浄土の本仏の招きと、この世で生身(しょうじん)と呼ばれる特定の仏像や、空海らのように神格化された宗教者の後押しによって、死後の往生は可能と信じたのだ。生身のおわす場はやがて広く納骨の場、霊場となってゆく。高野山奥の院、松島の雄島、立石寺、四天王寺……。いずれも浄土の望まれるような勝地だが、ただし霊魂はすみやかに浄土に去っており、中世墓域にはいなかった。だから追善のよすがとなる個人名の墓石は必要ない。

 しかるに現世が拡大し、他界や超越者がリアリティを失う近世以降になると、霊魂の浄土往生も単純には信じられなくなる。いきおい、長くこの世に逗留を余儀なくされる。しかしそんなものと生者がのべつに出会っていたら大変だ。そこで互いに棲み分けの契約がなされた。霊魂は普段は墓地にいて、生者の領域を侵さない。代わりに生者は長期にわたる死者のねんごろな追善供養とお盆の先祖供養を欠かさない。個人墓の出現の背景にはそうした現世の拡大、超越世界の縮小が認められるという。

 タイトルの「死者の花嫁」とは山形県村山盆地に見られるムカサリ絵馬のことで、独身のまま亡くなった男子があると、やがて花嫁を添わせた絵馬を作って奉納、縁者一同、追想の中でことほぐというもの。まさに死者は生者と同じ世を生き、ともに成長するという世界観の表れにほかならない。

 一つ付言せねばならないのは、先祖の霊は近くの里山にとどまって常に人々の生活を見守るという柳田國男の説を、仏教的装いの下にひそむ日本人の基層の霊魂観とする見方が強いが、著者はそれをすぐれて近世・近代的な見方にすぎないという。

新潮社 新潮45
2015年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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