主人公は枕! 鬼才が挑む無機物ハードボイルド

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主人公は枕! 鬼才が挑む無機物ハードボイルド

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 その女の子宮に宿ったのは人間ではなく「枕」だった。中身は蕎麦殻だ。生まれてきた枕は千両と名づけられたが、母は彼が七歳の時、つまらない事故のために頓死してしまう。

『枕の千両』は、史上初の無機物を主人公としたハードボイルド小説である。作者は漫画家でもある山上たつひこだ。山上は一九八〇年代末に小説を書き始め、『兄弟! 尻が重い』を初めとする著作がある。本書は二〇〇三年に発表した私立探偵小説『追憶の夜』以来、十二年ぶりの小説の著書ということになる。漫画家デビューから通算すれば、作家業五十周年の記念すべき一作。装画は江口寿史であり、漫画界の大物が手を組んだという点でも見逃せない。

 千両は地方都市・百足(むかで)山(やま)で、心の耳をすまし、街の物音を聞きながら日々を送っている。ある日彼は自殺しかけた宮脇志保という女性の命を救った。彼女はレイプ魔の犠牲となり、動揺したまま車を運転したことから人を撥ねて重傷を負わせてしまったのだった。警察は彼女の言葉を信じず、罪だけを問おうとする。その心労ゆえ死のうとしていたのだ。彼女の車中から発見された遺留品を手にした千両は犯人を追い始める。

 枕である千両には、その上に頭を載せた人の眠りを制御する能力がある。同時に、その人の記憶を映像として読み取ることもできるのだ。さらにもう一つ、彼には器物を動かす力がある。歳月を経た物たちに命が宿って動き始めたさまが「百鬼夜行絵巻」には描かれているが、それと同じ現象を起こすことができるのである。台所用品や洗濯機などの家電を駆使しての戦闘という、他にあまり類例のない場面が描かれる。

 物語を読むと、過去の山上作品で描かれたモチーフが処々に顔を出していることに気付かされる。物語の舞台である百足山市などの架空の地名がまず特徴的だ。千両の知り合いとして蓑虫のお化けのような外観の山(やま)姥(んば)が登場するが、こうした戯画化された登場人物にも既視感を覚える。また、陵辱されたヒロイン、性欲の塊となって人間性を失ったレイプ魔といった要素は『喜劇新思想大系』や『半田溶助女狩り』といった初期作品を想起させる。そうしたエログロの味と、近作『中年こまわり君』でも顕著だったペーソスの魅力との合流点に本書は存在する。

 物語の情景は、墨ベタで描かれた夜空のような、濃淡のはっきりしたものである。私は枕に共感しながら彼とそれを眺めた。思えばまたとない読書体験をしたものである。

新潮社 週刊新潮
2015年12月17日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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